名刺の刷り直しが間に合わず、着任初日は前任者の置いていった社章だけを胸につけて出社した。受付の女性が立ち上がり、深く頭を下げる。「社長、お待ちしておりました」。エレベーターの鏡に映る自分は、確かに一つの会社の頂点に立った男の顔をしている。その同じ朝、ニューヨークから届いた一通のメールが、私の新しい肩書きの下に小さな括弧で別の事実を書き添えていた。

頂点という錯覚

社長室は十四階の角にあった。窓の二面が都心の街並みに開け、机の上には前任者が几帳面に並べていったペン立てと、まだ電源の入っていない決裁端末が置かれている。秘書が分厚いファイルを抱えて入ってきて、午前中の予定を読み上げた。営業統括との面談、薬価交渉の進捗報告、地方支店長会議への祝辞、そして夕方には監督官庁の旧知への挨拶回り。一日の予定のどれもが、私の署名を最後の一筆として待っている。

頂点に立つとは、こういうことかと思った。ここで止まる稟議はない。私の上に、この国にはもう誰もいない。営業の最前線で数字に追われ、本部で予算と人事に削られ、十数年かけて昇ってきた階段の、最後の一段を踏み終えた感覚があった。錯覚だと知るのは、その三時間後である。

「現地の頂点」と「全体の末端」は、しばしば同じ椅子の別名だ。座った瞬間には、どちらの名で呼ばれているかが見えない。

二つの組織図

昼前、グローバル本社の人事システムへの初回ログインを促すメールが届いた。指示通りにアクセスすると、画面に組織図が展開する。日本法人の組織図では、私は一番上にいた。その下に営業、医学、薬事、管理の各本部が枝を広げている。見慣れた、私が今朝から君臨することになった樹形図だ。

ところが画面の右上の「グローバル表示」を押した瞬間、図は反転した。私はもはや頂点ではない。アジア太平洋地域統括の下にぶら下がる十数個の四角形のうちの一つ、「Japan」とだけ記された箱になっていた。その箱の上には地域統括がいて、さらにその上にグローバルの商業部門長がいて、CEOがいて、取締役会がある。私の決裁権限には、金額の上限が設定されていた。一定額を超える契約は、私の署名のあとに、見たこともない地域の財務責任者の承認を待つ。王の印は、別の王国では一枚の申請書に格下げされる。

観点ローカルから見た私グローバルから見た私
位置組織図の頂点・最終決裁者地域統括下の一ノード(Japan)
権限国内のあらゆる稟議の終着点金額・契約類型ごとに上限つきの執行者
評価軸市場での成果・現地での信頼本社KPIへの適合度・規律の遵守
言語現場の文脈・商習慣・規制の機微共通指標・標準手順・行動規範
時間地域に根を張る長期の関係四半期で測られる達成と説明責任

同じ一人の人間が、二つの図の上で正反対の場所に置かれている。誰も嘘をついていない。ローカルで私が頂点であることは事実だし、グローバルで私が被治者であることも事実だ。問題は、その二つが同時に真であることだった。

同じ日に届いた二つの要求

午後一番の営業統括との面談で、私は早速それを身体で知ることになる。彼は前年比を割り込んだ第二四半期の数字を机に広げ、巻き返しの戦術を熱っぽく語った。主力品の市場浸透を急ぐには、地域の医療機関とのこれまで以上に密な接点が要る、講演会の本数を増やし、医師との情報提供の機会を拡大したい、と。現場の論理として、筋は通っていた。数字は待ってくれない。

彼が出て行った十五分後、本社のコンプライアンス部門から二通目のメールが来た。件名は「グローバル行動規範の改訂版発効について」。医療従事者との関わり方に関する基準が、年明けから一段と厳格化されるという。講演会の回数、謝礼の上限、情報提供の記録義務。営業統括が今しがた「増やしたい」と言ったものの、ほとんどが「絞られる」側に並んでいた。本社は同じ私に、同じ週に、二つの矢印を突きつけていた。一方は上を指し、一方は下を指している。

達成せよ

売上と利益。前年を超え、地域目標に届かせ、四半期ごとに説明できる成長を出せ。数字は経営者の通信簿であり、未達は弁明を許さない。

遵守せよ

行動規範。グローバル基準の線を一ミリも越えるな。違反は一件でも全社の信用を毀損する。スピードより手続き、結果より正しさ。

しかも同時に

この二つは別々の部署から、別々の物差しで、しかし同じ私の評価として降ってくる。どちらかを選べとは誰も言わない。両方を満たせ、とだけ言う。

二つの要求は、それぞれ単独では正しい。利益なくして雇用も研究も守れない。規律なくして製薬企業の存在意義そのものが崩れる。厄介なのは、両者が同じ資源──時間、人手、現場との接点──を奪い合うことだった。講演会を増やせば数字に効くが規範のグレーゾーンに近づく。記録と承認の手続きを厚くすれば安全だが、現場の速度は確実に落ちる。私の椅子は、その綱引きの結び目の真上に置かれていた。

王の重さ、臣の軽さ

夕方、官庁街の旧知を訪ねた帰り、運転手付きの車の後部座席で、私は午前と午後の二つの図を頭の中で重ねていた。ローカルの王であることは、重い。この国の千数百人の生活と、彼らの家族と、長年付き合ってきた医療機関との信頼が、私の判断にぶら下がっている。一方でグローバルの臣であることは、ある意味で軽い。本社から見れば、私は交換可能な一つのノードだ。日本の数字が傾けば、私の名は組織図から静かに消され、別の箱に別の名が入る。王の重さと臣の軽さを、同じ胸の内で同時に抱えること。それが二つの王冠を載せるということだった。

厄介なのは、この二重性を誰かに打ち明けにくいことだ。現地の部下に「私も実は被治者なのだ」とは言えない。彼らにとって私は最終決裁者でなければならず、弱音は組織の背骨を曲げる。本社の地域統括に「現地はそんなに単純ではない」と言えば、言い訳と聞こえる。王の孤独と臣の孤独が、一人の人間の中で背中合わせになっている。

本社の数字は四半期で締まる。現地の信頼は十年で育ち、一度で壊れる。私はその二つの時計を、同じ手首に巻いて生きていく。

車が社屋に戻ると、刷り上がったばかりの新しい名刺の箱が机に届いていた。表に日本語で「代表取締役社長」、その裏に英語で「President, Japan」。同じ一枚の紙の表と裏に、頂点と末端が刷られている。私はその一枚を指でつまんで、しばらく窓の外の夜景を眺めていた。明日からの一日一日が、この表と裏のあいだで、どちらを向くかを問われ続けるのだと、ようやく実感が追いついてきた。

二君に仕える ── 全 10 回の地図

  1. 第 1 回 (本回): 二つの王冠 ── ローカルの頂点に立った日 ── 現地法人社長に着任した日、ローカルの王であると同時にグローバルの一被治者だと知る。王にして臣下という二重性の発見。
  2. 第 2 回: 本社という見えない天井 ── 頂点の上にもう一つの頂点がある。決裁権限の上限とダブルレポートラインが、現地社長の「王」を静かに削っていく。
  3. 第 3 回: 数字の催促と、規範の催促 ── 同じ一週間に、四半期目標の達成圧力とグローバル行動規範の厳守要求が、相反したまま同時に降ってくる。アクセルとブレーキを同時に踏めという構造を一場面に落として描く。
  4. 第 4 回: 翻訳されない文脈 ── 現地では正当な慣行が本社には逸脱に見え、本社の一律ルールが現地で機能しない。正しさのずれを一つの場面で描く。
  5. 第 5 回: 板挟みの解剖 ── 上の統治、下の達成、横の規制 ── 三方向の力が交わる一点に立つ者の解剖図
  6. 第 6 回: 短期と長期の引き裂き ── 四半期の数字が、まだ名前も知らない来年の患者の信頼を担保に取る。期末三日前の会議室で、王であり臣である男が引き裂かれる。
  7. 第 7 回: 「ノー」と言える距離 ── 本社・現場・当局の三方向に引く線。忖度・沈黙・抵抗それぞれの代償と、「ノー」を支える足場の話。
  8. 第 8 回: ローカルの知恵を、本社の言葉に ── 現地の正当な事情を、リスク・統制・コンプライアンスの語彙に翻訳して本社を動かす。通訳者になるという技術と、その代償の話。
  9. 第 9 回: 統治される側の倫理 ── 本社の監査を受ける側に座って、かつて自分が誰かを評価していた席を思い出す。従順でも反逆でもない、被治者としての誠実さを問う一話。
  10. 第 10 回 (最終回): 二君に仕える者の日々是好日 ── 完治しない板挟みを、引き裂きではなく緊張の保持として生きる最終話
結語

二つの王冠は、外せない。片方を脱げば、もう片方も意味を失う。現地の信頼を捨てて本社の指標だけを追えば、数字はやがて根を失う。本社の規律を軽んじて現地の事情だけを通せば、信用は一夜で崩れる。私は頂点であり末端であることを、矛盾のまま引き受けるしかない。

着任初日に分かったのは、答えではなく問いの形だった。これから十回にわたって私が向き合うのは、この二重性をどう生きるかという、終わりのない一日の連なりである。今日のところは、新しい名刺の表と裏を見比べたまま、まだ何も解決していない。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 頂点と末端は同じ椅子の別名。現地法人社長は、ローカルの組織図では最終決裁者だが、グローバルの組織図では地域統括下の一ノードにすぎず、二つの真実を同時に背負う。
  2. 達成と遵守が同じ週に降る。売上の圧力と行動規範の厳格化は別々の部署・別々の物差しから来るが、同じ時間・人手・現場接点という資源を奪い合い、経営者一人の評価として収束する。
  3. 二重性は解決でなく保持の対象。どちらかの王冠を脱げばもう片方も意味を失う。矛盾を矛盾のまま引き受けることが、二君に仕える者の出発点になる。
出典・参考文献
  1. Bartlett, C. A., & Ghoshal, S. Managing Across Borders: The Transnational Solution. Harvard Business School Press, 1989. (現地適応と全社統合を同時に担う子会社経営の古典)
  2. Prahalad, C. K., & Doz, Y. L. The Multinational Mission: Balancing Local Demands and Global Vision. Free Press, 1987. (統合と現地応答の緊張=I-Rフレームワーク)
  3. Kostova, T., & Roth, K. "Adoption of an Organizational Practice by Subsidiaries of Multinational Corporations: Institutional and Relational Effects." Academy of Management Journal, 2002. (制度的二重性 institutional duality の理論)
  4. Hofstede, G. Culture's Consequences. Sage, 2001. (国ごとの規範差とグローバル基準のずれ)
  5. Simons, R. Levers of Control. Harvard Business School Press, 1995. (業績追求と規律統制を両立させる経営管理の枠組み)
  6. Handy, C. The Age of Paradox. Harvard Business School Press, 1994. (相反する要請を解決でなく両立させて生きる経営の逆説)