稟議書は一枚だった。金額は四千八百万円。私の決裁権限は五千万円まで。数字の上では、私の印で完結するはずの一枚だった。けれど秘書が付箋を貼ってきた。「これ、本社のコマーシャル機能のサインも要るそうです」。たった二百万円の余白の内側で、私はもう王ではなかった。
権限表という地図に、描かれていない断崖
赴任して最初の週、私は「Delegation of Authority」という分厚い表を渡された。誰が、いくらまで、何を決められるか。役職ごとに金額の階段が引いてある。私はその階段のいちばん上、現地法人の社長の欄を指でなぞった。五千万円。それを超えれば地域統括へ。さらに超えれば本社へ。階段は明快で、私はそれを「自分の領土の地図」だと思った。
地図には縮尺がある。縮尺の外側は描かれない。私が見落としていたのは、金額の軸の隣に、もう一本、見えない軸が走っていたことだ。「種類」の軸である。患者支援プログラム、医療機関との契約形態、価格に触れる判断、開示を伴う取引。これらは金額が小さくても、別の階段に乗せ替えられる。四千八百万円の稟議が本社決裁に跳ね上がったのは、それが「マーケットアクセスに関わる新しいスキーム」に分類されたからだった。金額は私の領土の内側にあった。種類が、領土の外だった。
「社長、金額は通っています。ただ、これは『型』が新しいので。型が新しいものは、本社のポリシーオーナーが見ることになっていて」── 法務部長は申し訳なさそうに、しかし一歩も引かずにそう言った。
ダブルレポートライン ── 私の部下は、私だけの部下ではない
この一枚を止めたのは、社内の誰かの悪意ではない。構造だった。私のCFOは、組織図の上では私に報告する。同時に、彼女には点線がもう一本引かれている。本社のグローバル・ファイナンスへ。実線と点線。私が「進めよう」と言ったとき、彼女が一拍置いたのは、忠誠が二つに割れていたからではない。二人の上司に対して、同時に説明責任を負っていたからだ。
同じことが、コンプライアンス、メディカル、品質、人事でも起きている。現地の機能長たちは、私という現地の頂点に仕えながら、それぞれの本社機能という縦の糸にも結ばれている。私が横糸なら、本社機能は縦糸だ。布は、縦と横が交わるところでしか織れない。問題は、縦糸の張力を私が調整できないことだった。
実線の上司
現地法人の私。人事評価、日々の指示、現地の業績責任。部下が朝に顔を合わせるのは私だ。
点線の上司
本社の機能トップ。専門領域の基準、グローバル・ポリシーの解釈、キャリアの次の一歩。部下が長期で気にするのは、しばしばこちらだ。
板挟みの当人
現地CFOやコンプライアンス長。二人に同時に「なぜ」を説明する。どちらかが満たされなければ、判断は宙に浮く。
本社の論理は、現地の文脈を知らないまま降りてくる
翌朝、私はニューヨークとの電話会議に入った。先方は朝の七時、こちらは午後の四時。画面の向こうのポリシーオーナーは丁寧で、有能で、そして日本の医療現場を一度も歩いたことがなかった。彼の懸念は正当だった ── 「そのスキームは、他の三十か国で前例がない。一国で例外を作れば、グローバルの一貫性が崩れる」。私の事情も正当だった ── 「この型を使わなければ、現地の規制下で患者に薬が届くのが半年遅れる」。
どちらも正しい。これが板挟みのいちばん厄介なところだ。悪人がいれば話は早い。いるのは、別々の正しさを背負った二人の善人だけだった。本社にとっての最適は「三十か国で同じ顔をしていること」。現地にとっての最適は「この国の患者にいま届くこと」。最適化する関数が違うのだから、同じ入力でも違う答えが出る。
| 観点 | 現地の王として(ローカル) | 本社の臣として(グローバル) |
|---|---|---|
| この稟議の意味 | 患者アクセスを半年早める現実的な一手 | 三十一か国目の例外、一貫性への穴 |
| 時間の感覚 | 今四半期、今の患者 | 三年後の監査、十年の評判 |
| 正しさの基準 | 現地の規制と商習慣に適合しているか | グローバル・ポリシーから逸脱していないか |
| 失敗したときに失うもの | 市場の信頼、現場の士気、数字 | 制度の整合、他国への波及、統治の権威 |
| 「沈黙」が意味するもの | 承認を待つ患者と営業 | 前例化を恐れるリスク部門 |
天井に手が触れた夜
会議は結論を出さずに終わった。本社は「テンプレート化して、グローバルのポリシー改定の中で検討する」と言った。正しい手続きだ。そして、その手続きは数か月かかる。私は自室に戻り、もう一度あの一枚を見た。金額は私の権限の内側。種類は外側。私の印鑑は、机の上で急に小さく見えた。
頂点に立ったと思っていた。組織を二十数年昇って、ようやく自分の名前で署名できる場所に来たと。その夜わかったのは、頂点の上には、ガラスでできた天井があるということだ。普段は透明で見えない。手を伸ばして、初めて固さに気づく。下から見上げる者には私は空に見えるだろう。けれど私の頭上にも、空ではなく、ガラスがあった。
私は本社を恨まなかった。彼らの一貫性への執着が、別の国で別の患者を守ってきたことを知っていたからだ。ただ、その夜の私には、どちらに従っても誰かを裏切る感触だけが残った。承認を急げば統治を裏切り、手続きを待てば現場を裏切る。王であり、臣である。二つの忠誠は、一枚の稟議の上で、決して同じ向きを向いてくれなかった。
二君に仕える ── 全 10 回の地図
- 第 1 回: 二つの王冠 ── ローカルの頂点に立った日 ── 現地法人社長に着任した日、ローカルの王であると同時にグローバルの一被治者だと知る。王にして臣下という二重性の発見。
- 第 2 回 (本回): 本社という見えない天井 ── 頂点の上にもう一つの頂点がある。決裁権限の上限とダブルレポートラインが、現地社長の「王」を静かに削っていく。
- 第 3 回: 数字の催促と、規範の催促 ── 同じ一週間に、四半期目標の達成圧力とグローバル行動規範の厳守要求が、相反したまま同時に降ってくる。アクセルとブレーキを同時に踏めという構造を一場面に落として描く。
- 第 4 回: 翻訳されない文脈 ── 現地では正当な慣行が本社には逸脱に見え、本社の一律ルールが現地で機能しない。正しさのずれを一つの場面で描く。
- 第 5 回: 板挟みの解剖 ── 上の統治、下の達成、横の規制 ── 三方向の力が交わる一点に立つ者の解剖図
- 第 6 回: 短期と長期の引き裂き ── 四半期の数字が、まだ名前も知らない来年の患者の信頼を担保に取る。期末三日前の会議室で、王であり臣である男が引き裂かれる。
- 第 7 回: 「ノー」と言える距離 ── 本社・現場・当局の三方向に引く線。忖度・沈黙・抵抗それぞれの代償と、「ノー」を支える足場の話。
- 第 8 回: ローカルの知恵を、本社の言葉に ── 現地の正当な事情を、リスク・統制・コンプライアンスの語彙に翻訳して本社を動かす。通訳者になるという技術と、その代償の話。
- 第 9 回: 統治される側の倫理 ── 本社の監査を受ける側に座って、かつて自分が誰かを評価していた席を思い出す。従順でも反逆でもない、被治者としての誠実さを問う一話。
- 第 10 回 (最終回): 二君に仕える者の日々是好日 ── 完治しない板挟みを、引き裂きではなく緊張の保持として生きる最終話
その晩、私は稟議に印を押さなかった。代わりに、本社のポリシーオーナーと、現地の患者団体の代表と、もう一度別々に話す時間を取った。手続きを早める裏技を探したのではない。二つの正しさが、どこで本当に衝突し、どこは衝突していないのかを、自分の手で確かめたかった。
天井は消えなかった。ガラスはまだそこにある。ただ、見えない天井に名前を与えたことだけは、わずかな違いを生んだ。見えない圧力に潰されるのと、見える制約と交渉するのは、別のことだ。私は王の冠を半分外して、臣下の礼を半分覚えた。残りの八回は、たぶん、この半分ずつの作法をめぐる話になる。
- 権限は金額だけで測れない。決裁表の「金額の軸」の隣に「種類の軸」が走り、小さな金額でも分類一つで本社決裁に跳ね上がる。現地社長の領土には、地図に描かれない断崖がある。
- ダブルレポートラインは忠誠を割る構造である。現地の機能長は実線で社長に、点線で本社機能に報告する。板挟みは個人の不誠実ではなく、二重の説明責任という設計から生まれる。
- 本社と現地は最適化する関数が違う。一貫性(三十一か国で同じ顔)と即時性(この国の患者に今)はどちらも正しく、同じ入力に違う答えを返す。悪人不在のまま衝突する。
- Bartlett, C. A., & Ghoshal, S. Managing Across Borders: The Transnational Solution. Harvard Business School Press, 1989. (本社・子会社の役割分担と多国籍企業の組織形態論)
- Prahalad, C. K., & Doz, Y. L. The Multinational Mission: Balancing Local Demands and Global Vision. Free Press, 1987. (統合と現地適応のintegration–responsivenessフレーム)
- Kostova, T., & Roth, K. "Adoption of an Organizational Practice by Subsidiaries of Multinational Corporations: Institutional and Relational Effects." Academy of Management Journal, 45(1), 2002. (制度的二重性institutional dualityの実証)
- Simons, R. Levers of Control. Harvard Business School Press, 1995. (診断的・境界的・信条的コントロールと権限委譲の設計)
- Jensen, M. C., & Meckling, W. H. "Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure." Journal of Financial Economics, 3(4), 1976. (本人=代理人問題とダブルレポートの緊張)
- Paine, L. S. Value Shift. McGraw-Hill, 2003. (業績要求と規範要求を両立させる組織倫理の枠組み)