監査チームの英文メールには、ひとつの単語が三度繰り返されていた。Inappropriate。不適切。私の机の上で、その語は翻訳を拒んでいた。彼らが見ているのは、ある講演会の謝金明細と、参加した医師の名簿と、開催地のホテルの請求書だ。私が見ているのは、その医師が二十年かけて積み上げてきた診療科の信頼と、薬機法の条文と、ここでは当たり前に通っている言葉の作法だ。同じ書類を、私たちは別の言語で読んでいる。
一通のメール
金曜の夜、東京はもう暗い。本社のあるバーゼルは午後の早い時間で、監査の担当者は昼食を終えたばかりの明るい声で、しかし文面は冷たかった。「貴法人の昨年度の医師向け講演プログラムについて、三件、グローバル行動規範との整合性に懸念がある」。添付された一覧の一行目に、私はよく知る名前を見つけた。地方の大学病院で、難治性の患者を最後まで引き受けてきた医師だ。彼に講演を依頼したのは私の判断だった。
懸念の中身はこうだ。謝金が地域の相場より高い。同じ医師への依頼が年に四回ある。会場が患者数の多い都市部ではなく、彼の勤務地に近い地方都市だった。本社の基準では、これらは「便益供与による処方誘導の疑い」を構成する。彼らは正しい。基準に照らせば、正しい。
だが私は知っている。その謝金は彼の専門性に対する妥当な対価であり、年四回は彼が扱う疾患領域の学会日程に沿った当然の頻度であり、地方都市での開催は彼が東京まで動けないほど患者を抱えているからだ。文脈を抜けば逸脱に見え、文脈を入れれば誠実に見える。問題は、メールに文脈を書く欄がないことだった。
正当な慣行が、逸脱に見えるとき
ここで起きているのは、不正の隠蔽ではない。翻訳の失敗だ。現地で長い時間をかけて形成された医療者との関係には、明文化されない作法がある。過剰な接待は薬機法も業界自主基準も禁じている。だが、専門家に敬意を払い、その知見に対価を払い、地域の医療を支えるという営みは、贈賄とは別のものだ。両者を分ける線は、現地の文脈の中にしか引かれていない。
本社の規範は、その線を世界中で一本にしようとする。理由は分かる。国ごとに線が違えば、どこかの国の緩い線が抜け道になる。一律であることは、ガバナンスの強さそのものだ。しかし一律の線は、現地でだけ意味を持つ文脈を切り落とす。切り落とされた文脈の側に、正当な慣行が取り残される。
規則は文脈を運べない。運べるのは、規則を読む人間だけだ。そして本社は、現地の人間を信用するために規則を作ったのではない。信用しなくても回るように規則を作ったのだ。
二つの読み方
同じ三件の講演会を、本社と現地はこう読む。
| 観点 | グローバル本社の読み | 現地法人の読み |
|---|---|---|
| 高めの謝金 | 便益供与・処方誘導の疑い | 希少な専門性への妥当な対価 |
| 年4回の依頼 | 関係の異常な密度 | 疾患領域の学会日程に沿った頻度 |
| 地方都市での開催 | 監視の届きにくい場所の選択 | 多忙な医師が動けない事情への配慮 |
| 判断の根拠 | 明文化された一律基準 | 明文化されない現地の作法 |
| 守ろうとするもの | 制度全体の信頼性 | 個々の関係の誠実さ |
どちらも嘘をついていない。どちらの読みも、自分の立つ場所からは正しい。やっかいなのは、この二つが対話になりにくいことだ。本社は基準の言語で語り、現地は文脈の言語で語る。基準は文脈を「言い訳」と聞き、文脈は基準を「現実を知らない硬直」と聞く。
翻訳しようとして、すり減る
私はその夜、返信を三度書き直した。最初の版は、現地の事情をすべて説明する長い弁明だった。読み返して消した。弁明は、基準の言語では弱さに聞こえる。二度目の版は、本社の基準を全面的に受け入れ、三件すべてを「今後は行わない」と約束する短い文だった。これも消した。それは、あの医師との二十年を、保身のために差し出すことだった。
翻訳には、三つの態度がありうる。
直訳して、屈する
現地の文脈を切り捨て、本社の基準をそのまま受け入れる。摩擦は消えるが、現地で築いたものも消える。臣として従順、王として空虚。
意訳して、ごまかす
本社には基準遵守を装い、現地では従来通り続ける。二枚舌は短期的に楽だが、いつか監査が文脈の裂け目を見つける。最も危うい道。
注釈をつけて、闘う
切り落とされる文脈を、基準の言語に翻訳し直して提示する。時間がかかり、しばしば負ける。だが翻訳者が一人もいなくなれば、現地はただの逸脱の集積になる。
私は三度目の版で、③を選んだ。各講演会について、薬機法と業界自主基準のどの条項に照らして適法かを示し、謝金の算定根拠を学会の標準報酬と並べ、開催地の選定理由を患者数のデータで裏づけた。弁明ではなく、翻訳として。読み手が文脈を「言い訳」ではなく「証拠」として受け取れる形に組み直した。
機能不全を起こす一律ルール
もう一つ、逆向きの翻訳の失敗がある。本社が現地の事情を知らずに下す一律ルールが、ここでは機能不全を起こす。たとえば、すべての医師との接触を専用システムに事前登録せよという規則。欧米では機能する。だが日本の地方では、病院の電子化が遅れ、医師が個人の判断で時間を割いてくれる文化がある。事前登録を厳格に運用すれば、最も誠実に協力してくれる医師ほど、手続きの煩雑さで離れていく。
本社にとって、その規則は不正を防ぐ柵だ。現地にとって、その柵は誠実な関係まで締め出す網だ。柵と網は、設計者が同じでも、立つ土地が違えば別の機能を持つ。私の仕事は、この二つの失敗の間で、どちらにも完全には屈さずに線を引き直し続けることだった。きれいに引けた試しはない。
二君に仕える ── 全 10 回の地図
- 第 1 回: 二つの王冠 ── ローカルの頂点に立った日 ── 現地法人社長に着任した日、ローカルの王であると同時にグローバルの一被治者だと知る。王にして臣下という二重性の発見。
- 第 2 回: 本社という見えない天井 ── 頂点の上にもう一つの頂点がある。決裁権限の上限とダブルレポートラインが、現地社長の「王」を静かに削っていく。
- 第 3 回: 数字の催促と、規範の催促 ── 同じ一週間に、四半期目標の達成圧力とグローバル行動規範の厳守要求が、相反したまま同時に降ってくる。アクセルとブレーキを同時に踏めという構造を一場面に落として描く。
- 第 4 回 (本回): 翻訳されない文脈 ── 現地では正当な慣行が本社には逸脱に見え、本社の一律ルールが現地で機能しない。正しさのずれを一つの場面で描く。
- 第 5 回: 板挟みの解剖 ── 上の統治、下の達成、横の規制 ── 三方向の力が交わる一点に立つ者の解剖図
- 第 6 回: 短期と長期の引き裂き ── 四半期の数字が、まだ名前も知らない来年の患者の信頼を担保に取る。期末三日前の会議室で、王であり臣である男が引き裂かれる。
- 第 7 回: 「ノー」と言える距離 ── 本社・現場・当局の三方向に引く線。忖度・沈黙・抵抗それぞれの代償と、「ノー」を支える足場の話。
- 第 8 回: ローカルの知恵を、本社の言葉に ── 現地の正当な事情を、リスク・統制・コンプライアンスの語彙に翻訳して本社を動かす。通訳者になるという技術と、その代償の話。
- 第 9 回: 統治される側の倫理 ── 本社の監査を受ける側に座って、かつて自分が誰かを評価していた席を思い出す。従順でも反逆でもない、被治者としての誠実さを問う一話。
- 第 10 回 (最終回): 二君に仕える者の日々是好日 ── 完治しない板挟みを、引き裂きではなく緊張の保持として生きる最終話
返信を送った後も、私は自分が何を守ったのか確信が持てなかった。本社は私の翻訳を受け取り、三件のうち二件を「了承」し、一件については「今後は事前協議を」と求めてきた。勝ちでも負けでもない。文脈と基準のあいだに、その晩だけの線が一本引かれて、また消えた。
翻訳されない文脈は、消えるのではない。翻訳者の中に溜まっていく。王として現地の正しさを背負い、臣として本社の言語で語り直す。その往復で最も摩耗するのは、規則でも医師でもなく、両方を読める一人の人間だ。摩耗を引き受ける誰かがいる限り、ずれは破綻にならない。だがその誰かが疲れ果てた朝に、組織は初めて、自分が何に支えられていたかを知る。
- 逸脱と誠実は文脈が分ける。同じ謝金・頻度・開催地が、本社の基準では処方誘導に、現地の文脈では妥当な敬意に見える。線は文脈の中にしか引かれていない。
- 一律ルールは抜け道を塞ぎ、同時に誠実を締め出す。事前登録の柵は不正を防ぐが、最も協力的な医師ほど手続きで離れる。柵は土地が違えば網になる。
- 翻訳者が摩耗を引き受けることで、ずれは破綻を免れている。直訳=屈服、意訳=二枚舌、注釈=闘い。第三の道だけが王と臣の両方を保つが、最も人をすり減らす。
- Bartlett, C. A., & Ghoshal, S. Managing Across Borders: The Transnational Solution. Harvard Business School Press, 1989. (グローバル統合とローカル即応の同時追求という本社子会社の構造的緊張)
- Prahalad, C. K., & Doz, Y. L. The Multinational Mission: Balancing Local Demands and Global Vision. Free Press, 1987. (統合-即応フレームによる現地圧力と本社規律の調停)
- Kostova, T., & Roth, K. "Adoption of an Organizational Practice by Subsidiaries of Multinational Corporations: Institutional and Relational Effects." Academy of Management Journal, 45(1), 2002. (制度的二重性=本社規範と現地制度の板挟みの理論化)
- Simons, R. Levers of Control. Harvard Business School Press, 1995. (境界システムと信念システム=一律ルールと現地判断の制御設計)
- Paine, L. S. Value Shift. McGraw-Hill, 2003. (法令遵守を超えた価値基盤のコンプライアンスと文脈依存の倫理判断)
- Hofstede, G. Culture's Consequences. 2nd ed., Sage, 2001. (国民文化の次元が一律基準の現地での意味を変える実証)