「昇進とは椅子が高くなることだ」と、若いころの私は思っていた。実際に高くなったのは、椅子ではなく視点のほうだ。十二階の社長室からは、各フロアの机までは見えない。それでも組織図という一枚の地図を広げると、五つの部門が平野のように並んで見える。営業、マーケティング、メディカル、法務、そして資材審査。第一話では、自分の机から見た「正義病」を書いた。今度は地図の上から、五つの正義が隣どうしで噛み合わない景色を見ている。

社長席という高さ

私はかつて、その地図の一区画に座っていた。資材審査の机だ。当時、隣の部門との摩擦は山のように大きく見えた。いま上から眺めると、同じ摩擦は地図の等高線のように、ただの一本の線になる。高さは物事を平らに見せる。その平らさが落とし穴だ。上に来るほど、現場で鳴っていた軋みの音が遠ざかる。

月曜の朝、五人の部門長の週報が机に並ぶ。同じ会社の、同じ一週間の記録だ。なのに読み比べると、五つの違う会社の報告を聞かされている気分になる。営業の週報には予算の遅れが、資材審査の週報にはその週の差し戻しが七件と記される。同じ薬の、同じ販促資材をめぐって、片方は「遅い」と書き、もう片方は「急ぎすぎだ」と書く。

それぞれの正義

悪人を探すつもりでこの地図を歩いても、一人も見つからない。いるのは、それぞれの持ち場で正しくあろうとする人たちだけだ。五つの正義を、順に書き出してみる。

営業

正義は「患者に薬を届ける速さ」。来週の説明会には資料が要る。だから資材は、できれば今日ほしい。彼らの時計は、いつも明日を指している。

マーケティング

正義は「伝わること」。一行で効く言葉を彫る。だが削って磨くほど、根拠を説明する余白も一緒に削れていく。

メディカル

正義は「科学的に正確であること」。主語を限定し、条件を付け、対象を明記する。正確であろうとするほど、言葉は長く、慎重に、地味になる。

法務

正義は「会社を守ること」。語尾のひとつひとつにリスクを読む。守ろうとするほど、結局は「何も言わない」が最も安全になっていく。

資材審査・ガバナンス

正義は「適正であること」。薬機法66条の誇大広告と、68条の未承認広告。その境界線を見張る。かつての私の椅子だ。

同じ一枚を、五つの目で見る

具体的な一枚を思い浮かべる。新規経口抗凝固薬のパンフレットだ。見出しには「出血リスクを抑えながら、しっかり効く」とある。この一行を、五つの部門がそれぞれ違う目で見る。同じ一行が、五通りの意味を持つ。

部門この一枚に見るもの机から出るひと言
営業スケジュール「明日の朝までに刷れますか」
マーケティング訴求力「この見出しは効く。残したい」
メディカル出典の射程「『抑えながら』の根拠試験の対象を明記すべきだ」
法務表現リスク「効果の保証と読まれかねない」
資材審査規制適合「承認された効能の外を示唆している。68条に触れる」

五人とも、正しい。営業の納期も、マーケの言葉の力も、メディカルの慎重も、法務の警戒も、資材審査の一線も、仕事としてはどれも正しい。正しさが五つ揃って、なお一枚の紙の上で衝突する。これが、社長席から見える景色だった。

地図には善人しか描かれていない

地図には、善人しか描かれていない。俯瞰して分かった、いちばん厄介なことだ。敵がいれば話は早い。倒すべき悪意があれば、経営は単純な戦いになる。だが現実の地図に悪意は描かれていない。あるのは、互いに譲れない五つの善意だけだ。

緊張は、解消するものではなく、制御するものだ。利益と成長と統制のあいだに張られた糸を、切らずに張り続けること。それが経営という仕事の中身だった。 ── ロバート・サイモンズ『Levers of Control』の趣旨を借りて

社長席の役目は、五つの正義から勝者を一人選ぶことではない。地図そのものが裂けないように、糸の張りを見ていることだ。どこか一本だけが強く引かれれば、紙は破れる。営業だけが勝てば規範が崩れ、資材審査だけが勝てば事業が止まる。

正義病 IV ── 二君に仕える ── 全 10 回の地図

  1. 第 1 回: 社長の椅子
  2. 第 2 回 (本回): 俯瞰すると、部門が見える
  3. 第 3 回: かつての自分の椅子に座る人
  4. 第 4 回: 二人の主君
  5. 第 5 回: 審査員の正義は、半分だった
  6. 第 6 回: 経営の論理に飲まれると、審査は壊れる
  7. 第 7 回: 部門長に「ノー」と言わせ続ける設計
  8. 第 8 回: 数字で測れないものを、経営会議へ
  9. 第 9 回: 両立を保つ仕組み
  10. 第 10 回 (最終回): 二君に仕える者の日々是好日
結語

俯瞰しても、答えは天から降ってこない。見えてくるのは、誰も間違っていないという、いちばん扱いにくい景色だ。悪人のいない衝突。それが正義病の正体だった。かつて私が座っていた資材審査の机も、いまは地図の一区画として小さく見える。小さく見えるからこそ、その椅子に座っていたころの歯がゆさを、私はまだ手のひらに覚えている。次に書くのは、その椅子のことだ。

Key Points ── 持ち帰る 4 つ
  1. 社長席の「高さ」は視点を上げる一方で、現場で鳴る軋みの音を遠ざける。
  2. 営業・マーケ・メディカル・法務・資材審査は、速さ・伝達・正確さ・防御・適正という別々の正義を生きる。
  3. 新規抗凝固薬のパンフ一行が部門ごとに五通りの意味を持ち、全員が正しいまま衝突する。これが正義病だ。
  4. 地図に悪意はない。経営の仕事は勝者選びでなく、五つの善意の張力を切らさず保つこと。
出典・参考文献
  1. Robert Simons, Levers of Control (1995) (緊張(革新と統制)は解消でなく制御の対象。boundary systems と diagnostic/interactive control の枠組み。)
  2. Michael Tushman & Charles O'Reilly, Organizational Ambidexterity (相反する二つの要求(探索と深化)を同時に抱える組織の設計。二君に仕える構造の原型。)
  3. Linda Treviño & Gary Weaver, Managing Ethics in Business Organizations (2003) (コンプライアンス型と価値共有型。倫理を組織に埋め込む二つの型の対比。)