私はかつてあの椅子に座っていた。八年前の四半期末、止めるべき資材を一件、私は通した。誰に脅されたわけでもない。評価表のいちばん上に営業本部長の判が並んでいた、それだけだ。いま社長室にいる私にできるのは、二階下のMが同じ夜に同じ判断をしなくて済むよう、仕組みのほうを先に動かしておくことだ。独立は決意では守れない。誰が彼の給料を決め、誰が彼の予算を切るか、その二つを私が握り直すしかない。
二本の紐を切る——評価権と予算
独立とは態度ではない。月に二百件を裁く部門長が経営に「ノー」と言えるかどうかは、二つの問いに尽きる。誰が彼の評価を決めるのか。誰が彼の予算を切れるのか。八年前の私には、その二つがどちらも営業に握られていた。だから就任して最初に動かしたのは、この二本の紐だった。
Mの一次評価者を、営業本部長から審査・ガバナンス担当役員に付け替え、最終評価を社長直轄にした。営業の判は、もう彼の処遇表のどこにも載らない。予算は売上連動をやめ、前年実績ベースの固定枠にした。四半期十八億円のディテールエイドが落ちても、審査員十八名の人件費は一円も削られない。止める仕事の値段を、売る仕事の業績から切り離す——それだけのことに、私は八年かかった。
| 従来——売上に握られていた | 改めた設計——社長直轄に置いた |
|---|---|
| 人事評価権:営業本部長が一次評価。期末の判が翌期の昇格と賞与を決めた | 一次評価を審査・ガバナンス担当役員に、最終評価を社長へ。営業の関与をゼロにした |
| 部門予算:売上の〇・三%連動。十八億円が落ちれば翌期の人員が削られた | 固定枠。前年実績ベースで売上から切り離し、審査員十八名を業績に関係なく維持 |
| 報告ライン:営業担当役員へ一本。止めた件は途中で握り潰せた | 社長と監査委員会へ二重化。重大指摘は両方へ同時送付し、途中で消えない |
止めた仕事を見えるようにする
切るだけでは足りない。止めた仕事は、放っておけば誰の目にも入らない。通した資材は売上になって現れるが、止めた資材は何も生まないから、無かったことになる。だから「止めた数」を数えて、毎四半期、取締役会の机に載せることにした。報告事項ではなく、議題として。誰かが口頭で説明し、取締役が問い返す形にしなければ、数字は流れて消える。
月次の止めたKPI
月二百件のうち、却下二十四件(一二%)、差し戻し六十件(三〇%)。通した数ではなく、止めた数を部門の成果として評価表の一行目に置く。
取締役会への定例議題
四半期ごとに却下・差し戻し・重大指摘の件数を定例議題化。八年前は年次の口頭報告ですらなかった項目が、いまは議事録に残る。
二重報告ライン
重大指摘は社長と監査委員会へ同時送付。片方が握り潰しても、もう片方の机に同じ紙が載っている。
エスカレーションの可視化
四半期で社長まで上がるエスカレーションは三〜四件。少なすぎれば握り潰しを、多すぎれば運用の破綻を疑う。件数そのものを健全性の指標にする。
Mが言えた朝、私が言えなかった夜
先月、同じ降圧薬の改訂版ディテールエイドが、同じ四半期末に審査室へ来た。MR四百人に配る前の最後の関門だ。営業から同じ電話が鳴ったはずだ。八年前、私はその電話に折れた。Mは折れなかった。違いは彼の胆力ではない。評価表のいちばん上に、もう営業本部長の判が無い。そこにあるのは社長の判、つまり私の判だけだ。
| 私が言えなかった夜(八年前) | Mが言えた朝(先月) |
|---|---|
| 状況:四半期末、降圧薬DAが十八億の山場。営業本部長が審査室へ直接来た | 状況:同じ降圧薬の改訂版DA、同じ期末、同じ十八億。営業から同じ電話 |
| 評価表:一次評価者が営業本部長。判は翌期の私の昇格に直結していた | 評価表:一次評価者は社長(私)。営業の判はどこにも載っていない |
| 結末:有効性の強調を一段甘くして通した。後にPMDAの指摘対象になりかけた | 結末:効能の逸脱二点を理由に差し戻し。四半期三件目のエスカレーションとして私の机に上がった |
止めました。理由は二点、効能の範囲を超える表現です。評価表に営業の判はありません、社長の判だけです。 ── M(資材審査・ガバナンス部門長)
設計が壊れる場所
仕組みは万能ではない。私が紐を切り、止めた数を見えるようにしたことで、Mは「ノー」と言える余地を得た。だが余地は中身ではない。却下二十四件という数字が一人歩きすれば、止めること自体が目的になる。差し戻し件数で評価されると知った部門は、本当は通してよい資材まで形だけ差し戻す。マイケル・パワーが監査社会で書いた通り、検証の仕掛けは、検証されている見かけを作る方へ容易に堕ちる。
だから私が最後に残しておかねばならないのは、数字ではなく態度だ。Mが三件目のエスカレーションを上げてきた朝、私が露骨に渋い顔をすれば、四件目は上がってこない。エドモンドソンの言う心理的安全は、規程の条文には書けない。社長が「ノー」を歓迎していると、Mが毎回信じられるかどうか。八年前の私を救えなかった仕組みを作り直しても、最後に物を言うのは、彼が朝に下す判断と、それを私が夜に潰さないという一点だけだ。
正義病 IV ── 二君に仕える ── 全 10 回の地図
- 第 1 回: 社長の椅子
- 第 2 回: 俯瞰すると、部門が見える
- 第 3 回: かつての自分の椅子に座る人
- 第 4 回: 二人の主君
- 第 5 回: 審査員の正義は、半分だった
- 第 6 回: 経営の論理に飲まれると、審査は壊れる
- 第 7 回 (本回): 部門長に「ノー」と言わせ続ける設計
- 第 8 回: 数字で測れないものを、経営会議へ
- 第 9 回: 両立を保つ仕組み
- 第 10 回 (最終回): 二君に仕える者の日々是好日
権力で作れるのは、ここまでだ。私はMの評価権を営業から引き剥がし、予算を売上から切り、報告ラインを二重にし、止めた数を取締役会の机に載せた。それで彼は、八年前の私が言えなかった「ノー」を、同じ降圧薬の同じ期末に言えた。だが仕組みが守ったのは独立そのものではなく、沈黙を破る余地にすぎない。最後に物を言うのは彼の判断であり、私にできたのは、夜にそれを潰さないと決めることだけだった。二君に仕えるとは、片方の主君が片方を黙らせる回路を、自分の手で外しておくことだ。
- 独立は決意ではなく二本の紐で決まる:誰が評価を決め、誰が予算を切るか。Mの一次評価を営業本部長から審査・ガバナンス役員へ移し、最終評価を社長直轄に置いた。
- 予算を売上〇・三%連動から前年実績の固定枠に変え、十八億円のDAが落ちても審査員十八名を一円も削らないようにした。
- 止めた仕事は見えないため、月二百件中の却下二十四件(一二%)・差し戻し六十件(三〇%)を取締役会の定例議題にし、報告でなく議題として残した。
- 報告ラインを社長と監査委員会へ二重化し、重大指摘は同時送付。エスカレーション件数(四半期三〜四件)そのものを健全性指標にした。
- 仕組みは余地を作るだけで、最後は社長が「ノー」を歓迎する態度に懸かる。数字が独り歩きすれば形だけの差し戻しに堕ちる(Power, Edmondson)。
- Robert Simons, Levers of Control (Harvard Business School Press, 1995) (boundary systems と diagnostic control の区別。止めた数を取締役会へ定例報告する設計は、診断的コントロールを境界系に接続する具体例として読める。)
- Michael Power, The Audit Society: Rituals of Verification (Oxford University Press, 1997) (差し戻し件数で評価される部門が、形だけの差し戻しに堕ちる危険。検証の仕掛けが「検証されている見かけ」を作る方へ流れる機序。)
- Amy C. Edmondson, The Fearless Organization (Wiley, 2018) (規程に書けない心理的安全。社長がエスカレーションに渋い顔をすれば四件目は上がらない、という本文の場面の理論的裏づけ。)
- Lynn S. Paine, Managing for Organizational Integrity (Harvard Business Review, 1994) (compliance(従わせる)と integrity(自ら判断させる)の区別。仕組みが余地を作っても最後はMの判断に懸かる、という結論の出典。)