資本家の目に、資材審査はコストセンターとは映らない。審査が守っているのは、貸借対照表に載らない最大の資産 ── 信頼だ。その毀損は、第 9 回で見た経路を通って資本コストに跳ね返る。本稿は、このシリーズを資本家の物差しで締めくくり、審査の現場へ戻す。
01貸借対照表に載らない資産
製薬企業の時価総額を、工場や在庫や現預金の合計で説明できる人はいません。簿価と時価の差の大半は、帳簿に載らないもの ── 信頼、ブランド、規制当局との関係、製品名がもつ安心感 ── が埋めています。資本家はその差額を承知のうえで株を買う。
だから資本家にとって、信頼は情緒の話ではなく資産勘定の話です。無形資産は積み上げるのに何年もかかり、崩れるのは一件の逸脱で足りる。在庫なら焼けても保険が下りますが、信頼が焼けても誰も補填しません。回復には、また何年も要る。資材審査は、この回復しにくい資産を日々の差し戻しで守っている活動です。
02無形資産への「投資」という見方 ── CGコード補充原則3-1③
守るだけではありません。コーポレートガバナンス・コード補充原則 3-1 ③は、人的資本や知的財産への投資等について、経営戦略・経営課題との整合を意識しつつ分かりやすく具体的に開示するよう企業に求めています。無形資産が「投資の対象」として開示の俎上に載っている、ということです。
この一文が審査の位置づけを変えます。審査を費用と見れば削減の候補ですが、無形資産への投資と見れば、削ることは将来価値の取り崩しになる。同じ作業が、勘定科目を変えただけで意味が反転する。伊藤レポートも、無形資産が企業価値の重要な源泉であることを、企業価値向上の論点として取り上げました。審査の予算を「経費」ではなく「無形資産への投資」として説明できれば、経営の中での扱いは変わります。
03逸脱は現実に起きる ── 監視事業報告書が示すもの
信頼の毀損は仮定の話ではありません。厚生労働省の販売情報提供活動監視事業報告書は、医療用医薬品の情報提供における逸脱事例を、社名を匿名としたうえで類型的に公表しています。エビデンスの提示が不十分なまま有効性を強調する、副作用の情報提供が不足する ── こうした逸脱が、現に毎年報告されている。
一件の逸脱が信頼を削り、第 9 回で見た経路 ── リスクプレミアムの上昇から資本コストへ ── を通って企業価値に乗ります。報道される制裁金額は一回の出費にすぎず、上がった資本コストは毎年更新される請求書になる。資本家はこの後者を見ています。
信頼という無形資産
製薬の価値の多くは信頼・ブランド・規制当局との関係に宿る。簿価には載らないが、時価との差額を埋めているのはここ。
CGコード補充原則3-1③
無形資産への投資の開示を求める規範。審査を費用ではなく投資と見れば、削減は将来価値の取り崩しになる。
逸脱 → 資本コスト
監視事業報告書が示す逸脱が信頼を削り、リスクプレミアムを通じて毎年の資本コストに乗る。罰金は一回、これは更新され続ける。
04審査は経路を事前に断つ
では、いつ守るのか。逸脱が報告書に載ってからでは遅い、というのが資本家の時間感覚です。資材審査は、不適切な情報提供が世に出る前に差し戻す。第 9 回で見たとおり、会社法 362 条 4 項 6 号が求める内部統制の一部として、審査は逸脱の経路を起点でふさぐ役割を担っています。
この「事前」という性質が、審査の価値を見えにくくもします。防いだ逸脱は数字に残らない。事故が起きなかった年に、審査の貢献は評価されにくい。だが資本家にとって、起きなかった資本コストの上昇こそが審査の成果です。火事を出さなかった消防が地味に見えるのと同じで、見えない貢献を翻訳する言葉が要ります。
05資本家の言葉で審査を語る ── そして審査の現場へ
だから審査員が経営に語るべきは、「規則で禁じられているから差し戻す」ではありません。「これは無形資産である信頼の保全であり、資本コストの上昇を防ぐ投資だ」── 資本家の物差しの言葉です。相手の勘定科目で価値を示せたとき、審査はコストセンターではなく、企業価値を守る最前線として理解されます。
同じ審査を、取締役会は統治が機能している可視的な証拠として見ますし、経営陣は事業を止めるブレーキではなく方向を保つハンドルとして使います。立つ位置で見え方は変わりますが、守っている対象は一つ ── 帳簿に載らない信頼です。資本家の層から見ても、結論は同じところに着地します。
審査の一件一件は、地味な差し戻しの積み重ねにすぎません。けれどもその一件が、リスクプレミアムを通じて資本コストに乗る逸脱を未然にふさいでいる。経営の意思決定を資本家の解像度で読み、こちらの判断を相手の言葉で返す ── それが、コストセンターと見られがちな審査を、無形資産への投資として経営に伝えるための作法です。資材審査の価値は、規則の遵守の先に、企業価値の保全としてある。
- 製薬企業の価値の多くは無形資産(信頼・ブランド・規制当局との関係)に宿る。CGコード補充原則 3-1 ③は、人的資本や知的財産への投資等の開示を求める。
- 不適切な情報提供は、厚生労働省の販売情報提供活動監視事業報告書が示すとおり現実に起きる逸脱(社名は匿名)。一件が信頼を削り、第 9 回の経路で資本コストに乗る。
- 審査は逸脱の経路を事前に断つ。防いだ逸脱は数字に残らないが、起きなかった資本コストの上昇こそが審査の成果。
- 審査員は「規則だから」ではなく「無形資産の保全=資本コストの抑制」という資本家の言葉で価値を語る。
- コーポレートガバナンス・コード 補充原則 3-1 ③. 人的資本や知的財産への投資等について、経営戦略・経営課題との整合性を意識しつつ分かりやすく具体的に開示・提供するよう上場会社に求める。
- 伊藤レポート(2014・経済産業省「持続的成長への競争力とインセンティブ」プロジェクト最終報告書). 資本効率と投資家との対話を主題としつつ、無形資産と企業価値の関係を企業価値向上の論点として取り上げた。
- 厚生労働省. 販売情報提供活動監視事業報告書. 医療用医薬品の販売情報提供活動における逸脱事例を、社名を匿名としたうえで類型的に示す一次資料。
- 会社法第 362 条 4 項 6 号(内部統制システムの整備). 業務の適正を確保するための体制の整備に関する決定を取締役会の専属事項とする。資材審査の体制はこの内部統制の一部を構成する。