目の前の一件の資材を審査するとき、視野はその案件に絞り込まれる。それは必要なことだ。しかし一歩引いて複数年の逸脱記録を横断したとき、初めて見えてくる引力がある。「副次評価項目のほうが結果が良かった」「医師は日本人データを求めるから」──同じ言葉が、年度を変え、薬剤を変え、担当者を変えながら記録されてきた。俯瞰の心とは、個々の審査の外に自分を置き、今日の判断が似たルートをたどっていないかを問う習慣だ。最終回はその定着を問う。
So what / So why ── この視座の核心
厚生労働省の販売情報提供活動監視事業(および広告活動監視モニター事業)は2019年から継続され、令和7年度(2025年)の報告書は「本事業が開始して今年度で9年目となった」と記録した。その同じ報告書に、「副次評価項目の結果をもとに『唯一の~を改善する治療薬』と誇大な表現を用いたものや、有効性のみを説明し安全性についての情報提供を怠った事案、他社製品との比較の際に自社製品に有利な部分のみを抜粋して説明した事案等、不適切な販売情報提供活動が依然としてみられる」と書かれた。9年経っても同じ類型が残っている──この事実が、この視座の核心を説明する。
一件ずつの審査は、「このデータは正確か」「根拠はあるか」という問いで完結しやすい。しかしその問いをすり抜けた逸脱が記録されてきた。問題は「正確さ」の一歩手前にある選択──何を見せて、何を前景に置くか、どの評価項目を拡大するか──にある。この選択は、個別案件を見ているだけでは見落としやすい。複数年の記録を横断して初めて、特定の構造的引力が浮かぶ。
俯瞰の心とは、その横断読みを習慣化し、自分が今手がけている案件の中に「記録された引力と同じ形」が働いていないかを問うことだ。こうありたい第1回「証拠の管理者として立つ」が問うたのと同じ問い──「自分は説得者か、証拠の管理者か」──を、過去の失敗を鏡として毎回の審査に持ち込む。それが定着の形だ。
視座の中身 ── What / Where / Why / How
What(何を見るか)── 過去の逸脱記録から、類型ごとの「引力の形」を抽出する。主要評価項目を隠して副次評価項目を前景化する引力、有利なサブグループだけを見せて全例を出さない引力、副次評価項目の結果から「唯一の」という修飾を生み出す引力。それぞれに名前をつけ、手元に置く。審査のとき「この資材はどの引力に近いか」と問う目がそこから育つ。
Where(どこで使うか)── 通常の審査フローの末尾に「俯瞰の問い」を一行加える。チェックリストの最後に「この判断は記録されたどのパターンに形が近いか」と書き足すだけでよい。月に一度、過去のインシデント集から一件を選んで読み直す時間を確保することも、同じ効果を積み上げる。
Why(なぜ必要か)── 個別案件では「正確さ」の問いで止まってしまう。しかし引力は正確さの問いの外側で働く。横断読みをしなければ、同じ引力に何度でも引き込まれる。9年間の記録が示すのは、個人の誠実さだけでは防げない構造的な繰り返しがあるという事実だ。
How(どう定着させるか)── 意志ではなく仕組みで定着させる。審査チェックリストへの一行追加、月例のインシデント読み返し、チーム内での逸脱事例の短い読み合わせ。どれも大げさな仕掛けではない。問いを構造に埋め込むことで、気力が落ちている日でも俯瞰が起動する。
感情移入の入口 ── その立場に立つ
処方する医師の立場に、一度入ってみたい。
ある医師が、同じ会社の同じ製品について、半年の間に複数回の製品説明を受けたとする。どの説明も資料の数字は正確だった。毎回、副次評価項目の良好なグラフが大きく映し出され、有効性の話が9割を占めた。安全性の話は「禁忌はこちらです」という1枚で終わった。主要評価項目について聞かれたときだけ答えがあったが、グラフとしては提示されなかった。医師はこの薬を「よく効く薬」という印象とともに処方に加えた。
患者に有害事象が起きた後、医師は審査報告書を初めて確認した。主要評価項目では有意差が認められず、副次評価項目の解析だけが肯定的な結果を示していたこと、安全性の項目には複数の重要リスクが記載されていたことを、そこで知った。「説明と違う」という感覚ではなく、「説明が欠けていた」という発見だった。
この医師に責任があるわけではない。処方判断に使える時間と注意力は有限で、審査報告書を毎回確認することは現実的ではない。情報の束を設計したのは、資材を作り、説明を行った側だ。受け手の頭の中に残る像を管理できるのは、作り手だけだ。その医師の処方の判断材料が何だったかを想像する感覚が、俯瞰の心の入口になる。過去のインシデントは、その医師たちの記録でもある。
しくじりを鏡に ── この目で過去の逸脱を読み直す
二つのインシデントを並べてみる。
2019年(広告活動監視モニター事業報告書・事業番号000509783)── 気管支喘息治療薬の院内製品説明会で、第Ⅲ相国際共同試験の主要評価項目である年間喘息増悪率について、全例解析(実薬群・プラセボ群いずれも約250例)の結果を紹介せず、日本人集団(各群約15例)についてのサブグループ解析結果のみをスライドとパンフレットに掲載した。なぜ主要評価項目は日本人データのみを紹介したのか尋ねると、「医師は日本人データを求めるため」との回答があった。症例数は少ないが、全例解析よりサブグループのほうが良い結果であり、恣意性が感じられると記録された。(→ しくじりの解剖 vol.02「データ・グラフの恣意的な抜粋・加工・見せ方」)
2025年(販売情報提供活動調査事業報告書・事業番号001520054)── 糖尿病用剤について、企業担当者がオンラインのグループ面談と製品パンフレットで、国際共同第Ⅲ相試験に関する説明の中で「本剤は生命予後の改善を示した唯一の**病に対する治療薬です」と説明した。しかし生命予後の改善に関するデータは副次的評価項目(全死亡までの期間)の結果であり、主要評価項目ではなかった。副次的評価項目の結果を根拠に「唯一の」生命予後改善薬と紹介した説明は誇大な表現と判断された。(→ しくじりの解剖 vol.05「誇大・断定的な表現」)
俯瞰の目でこの二件を並べると、6年の時間差を超えて同じ構造が浮かぶ。結論が先にあり、その結論を支持するデータが選ばれた。2019年は「全例より良いサブグループ」、2025年は「主要より良い副次評価項目」──選択の対象は違うが、動いた引力は同じだ。もし2025年の資材作成者が2019年のインシデントを鏡として手元に置いていたなら、「自分が選ぼうとしているのは、記録されたあの選択と同じ形ではないか」という問いが働いただろうか。俯瞰の習慣が問うのはそこだ。
複眼の審査 ── 規則の目と当事者の目 ── 全 10 章の地図
- 第1回: 複眼の必要 ── なぜ「規則の目」と「当事者の目」を同時に持つのか
- 第2回: ミクロの目 ── ルールに精通する、その「なぜ」まで
- 第3回: 感情移入という方法 ── 知識を「自分ごと」に変える
- 第4回: 患者本人の目 ── この資材を信じて薬を飲むのは、私だ
- 第5回: 家族の目 ── 妻が病の夫、子が患者の親、親が患者の子
- 第6回: 弁護士の目 ── 反対尋問に、この資材は耐えるか
- 第7回: 規制当局の目 ── 監視・行政指導の視座で自社資材を読む
- 第8回: マスコミ・社会の目 ── 一面記事の見出しを想像する
- 第9回: 視座を束ねる ── 切り替え・同時保持・統合のメタ認知
- 第10回 (本章): 俯瞰の心を習慣に ── しくじりの解剖を鏡に
- 同じ引力が9年後も働いている。 副次評価項目が良ければ前景に出す、全例より有利なサブグループだけを見せる──その選択は年度を変え薬剤を変えながら繰り返されてきた。一件ずつ見ていては見えなかったパターンが、横断することで見える。俯瞰の心はその横断を習慣にすることだ。
- 過去のインシデントは自分へのフィードバックだ。 誰かの失敗記録を読むとき「なぜこんなことを」と思わずに「自分はその引力に気づけるか」と問い直す。記録は外部の話ではなく、自分の判断の前景になる。その使い方ができて初めて、記録は教育資料から鏡になる。
- 審査の最後に一歩引く習慣が、定着の実体だ。 俯瞰は特別なスキルではない。資材を見終えた後、「この判断は過去のどのパターンに近いか」と30秒問う時間を定例化すること──チェックリストへの一行追加、月に一度のインシデント読み返し、それが誠実さを構造にする方法だ。
- 厚生労働省「医療用医薬品の広告活動監視モニター事業報告書」2019年(事業番号:000509783)
- 厚生労働省「医薬品の販売情報提供活動調査事業報告書」2025年(事業番号:001520054)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」(2019年9月25日)
- 日本製薬工業協会「製薬協コード・オブ・プラクティス」
- 医薬品等適正広告基準(厚生労働省)
- Kunda, Z. (1990). The case for motivated reasoning. Psychological Bulletin, 108(3), 480–498.
- Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (But Not by Me). Harcourt.