「倍量処方で実質28日分を出せます」と医師に教えたMRは、薬事制度を壊そうとしていたわけではない。四半期残り2週間、競合品が先行する施設で、何とかしなければという思いから口が動いた。7年間で186件の逸脱事例を読み解くと、根っこにあるのは個人の倫理観の低さではなく、組織が重圧を設計してきた方法の失敗だ。この最終章では、重圧の構造を具体的に分解し、善意を逸脱に変えない組織の条件を問う。
So what / So why ── この回の核心
このシリーズで追ってきた9カテゴリ・186件の事例に、共通の出発点がある。担当者が「患者のためになる薬を届けたい」と信じていたこと、そして「自分は正しいことをしている」と感じながら逸脱に加担していたことだ。序章から前章まで繰り返し現れた4つの深層心理——動機づけられた推論、局所合理化、不作為の罪、責任の外部化——は、個人が特別に弱かったから働いたのではない。それを引き出す圧力の構造が組織の中に埋め込まれていたから発動した。
令和7年度の監視事業報告書は、「競合が激しい医薬品などについて、一部の企業で、組織的に不適切な販売情報提供活動を行っていると疑われる事例が散見された」と明記した。MRの言い間違いや知識不足の問題ではなく、営業組織として方向性を揃えた逸脱が確認されている。チェックリストの追加も、研修の時間数を増やすことも、この構造には届かない。
致命的なのは、逸脱への対応が常に事後的な「教育強化」で終わることだ。同じ指摘が7年間の報告書に繰り返し登場する——MR教育が不十分、資料のチェックが不十分、COI開示が形骸化している。知識の問題なら教育で解決できる。しかし毎朝の朝礼で「今月の数字を上げろ」という圧力が続く限り、その日の夕方の行動は変わらない。問われるべきは設計の失敗だ。
重圧の構造 ── 誰から、どの締切で、どんな数字で
製薬マーケティングの現場を重圧源別に解体すると、以下の7層が浮かぶ。これらは単独でも機能するが、複数が重なると抵抗力は急速に下がる。
① 四半期売上・シェア目標。MRの達成率は通常、四半期単位で評価される。期末残り2週間という局面が特に危ない。「あと何件採用が取れれば達成か」が計算できる段階で、口頭説明の内容は微妙に変化する。エビデンスのない優位性説明(vol-03参照)の多くは、この局面で生まれる。
② 上市後早期の処方拡大期待。新薬上市直後、製品チームには「立ち上げ速度」というKPIが課せられる。処方日数制限(承認後1年間は原則14日以内)はこの期待と正面から衝突する。「倍量処方で実質長期投与が可能」という説明が7年間で複数年度・複数製品にわたって記録されたのは、上市期限の重圧が繰り返し同じ行動を生み出したからだ。
③ KOL(キーオピニオンリーダー)との関係維持。大学病院の著名医師との関係は製品の採用に直接影響する。KOLが主催企業の講演会に登壇する際、担当者には「先生の話に口を挟みにくい」という空気が生まれる。令和7年度のアレルギー用薬事例で「確認時間がないことを理由に事前審査が省かれた」背景には、この非対称な力学が作用していた可能性がある。
④ 競合圧と差別化の焦点化。競合品が先行している施設ほど、MRは「違いを説明しろ」という圧力を受ける。令和6〜7年度に他社誹謗(vol-07参照)が急増した理由の一つは、競争激化の中で「差をつける説明」への需要が高まったことにある。「科学的に正確でも目的次第で誹謗になる」という判断は、差別化への焦点が強まるほど鈍くなる。
⑤ 上長承認プロセスの両義性。「上司も同席していた」「部長が承認したスライドだ」という言葉は、個人の逸脱事例に繰り返し現れる。上長承認が責任の分散装置として機能するとき、一人ひとりの責任感は薄まる。承認プロセスが多層化するほど、責任の外部化(4ドライバーの第4番)が進む。
⑥ インセンティブ設計の歪み。短期売上に連動した報酬体系の下では、安全性情報を丁寧に伝えることは目標達成に直接貢献しない。「副作用の話は求められなかったから言わなかった」(不作為の罪、vol-06参照)は、この構造の論理的帰結だ。インセンティブが有効性の強調を報い、バランスを罰しない設計になっているとき、行動は傾く。
⑦ 規制と現場の板挟み。ガイドラインが定める情報提供の水準と、医師から「もっと詳しく教えてほしい」と求められる現場のニーズは、時に緊張関係に入る。令和7年度報告書は「医薬品の情報提供に過度に慎重になっている担当者が増えた」という医療現場の声も記録している。委縮もまた問題だ。「何が許容されるか」の線引きが曖昧なまま、担当者は規制と期待の間で揺れる。
内面の再構成 ── 信条→心情→深層心理
ここでは不眠症治療薬の事例(令和3年度)を素材に、一人のMRの内面を再構成する。「1日の上限量の半分を2錠・14日分処方することで、実質的に28日分の処方ができる」と医師に伝えた担当者の思考経路だ。
信条(何を正しいと信じたか):「この薬は良く眠れて患者の生活の質を上げる。睡眠障害で苦しんでいる患者を、制度的な制約で1か月に2回も来院させるのは負担だ。医師も同じように思っているはずだ。」——この信条は「患者のため」という純粋な動機を出発点にしている。それ自体は逸脱ではない。
心情(その時の感情):競合品がすでに採用されているその施設で、担当者は四半期残り3週間という現実を抱えていた。「何か突破口を見せなければ」という焦りと、「先生はこの情報を役に立てると思うはずだ」という確信が重なった。良いことをしているという感覚が、警戒心を押し下げた。
深層心理(4ドライバーの作動):まず動機づけられた推論が働く。「この薬は良い」という結論が先にあり、「処方日数制限の趣旨は市販後安全監視にある」という情報はその結論を揺るがすものとして意識から排除された。次に局所合理化が加わる。「倍量処方は用法用量の範囲内だから、私は違法なことを言っていない」——1つの説明単位で見ると正当に見えた。その説明が制度の形骸化を意味することには気づかなかった。不作為の罪も静かに作動した。処方日数制限の趣旨——市販後1年間は安全性データが限られているという事実——を伝えなかった。聞かれなかったから言わなかった。最後に責任の外部化が完成する。「先生が最終的に処方を判断する。先生が倍量処方を選んだのであれば、先生の医学的判断だ。」——4つのドライバーが連鎖し、「患者のため」という善意から出発した行動が、処方日数制限の形骸化として着地した。
この連鎖は例外ではない。エビデンスのない優位性説明(vol-03)、安全性情報の省略(vol-06)、COI形骸開示(vol-08)のいずれでも、信条→心情→深層心理の同じ経路をたどる。設計の問題とは、この経路を遮断する構造がないことだ。
下敷きの実インシデント
事例1:アレルギー用薬・企業主催講演会(令和7年度・資料番号001520054)
媒体・領域:アレルギー用薬/企業主催講演会のスライド(⑦-3)
何が起きたか:製薬企業主催の講演会で、演者の医師が承認された用法用量とは異なる「短時間投与法」「少量長期投与」を繰り返し紹介した。他社製品Bについて「A剤とB剤は全く同じものだから切り替えても安全」とエビデンスなく説明し、最後のスライドに「A剤は安全、簡単、患者メリット大」と記載した。演者が作成したこれらの資料は、販売情報提供活動監督部門による事前審査を経ないまま希望する受講者に配信された。報告書はその理由を「確認時間がないことを理由に」と記録している。
原文引用:「演者の医師が、本剤A剤について、承認された用法用量とは異なる、短時間投与法や少量長期投与などを繰り返し紹介した」「販売情報提供活動監督部門による事前の審査を経ないまま、希望する受講者に対して配信した」
内面分析との接続:「時間がない」は局所合理化の典型的な形式だ。審査という最後の防衛線を省く判断は、一つの合理的な理由から正当化されたが、その判断が「承認外用法の推奨・他社誹謗・エビデンスなし説明・誇大表現」を一度に通過させた。事後に是正活動が行われなかったことは、責任の外部化の最終形でもある。→ 分析編 vol-09「その他の不適切な営業手法」
事例2:不眠症治療薬・MRによる口頭説明(令和3年度・資料番号000819797)
媒体・領域:不眠症治療薬/MRによる口頭説明
何が起きたか:新医薬品上市後の処方日数制限への対応として、MRが医師に「用法用量で認められた1日の上限量の半分の量を2錠14日分処方することで、実質的に28日分の処方ができる」と説明した。
原文引用:「用法用量で認められた1日の上限量の半分の量を2錠14日分処方することで、実質的に28日分の処方ができる」
内面分析との接続:用法用量の範囲内という局所合理化と、「患者の通院負担を減らしたい」という動機づけられた推論が組み合わさった典型例だ。処方日数制限の目的——市販後安全監視期間の確保——は言及されなかった(不作為の罪)。同種の説明が平成31年度(緑内障・高眼圧症治療薬)、令和2年度(鎮痛剤)にも記録されており、上市期限の重圧が毎年同じ行動を生み出していることを示す。→ 分析編 vol-09「その他の不適切な営業手法」
事例3:(特定製品なし)・メーカー主催Webセミナー(令和3年度・資料番号000819797)
媒体・領域:(特定製品なし)/メーカー主催のWebセミナー
何が起きたか:メーカー主催のWebセミナーで、いずれの発表者もCOI開示を行わなかった。発表者全員の説明は「メーカーから求められなかったため、COIの表示を行わなかった」というものだった。
原文引用:「いずれの発表者もCOI開示を行わなかった。発表者によれば、メーカーからCOI開示に関して求められなかったため、COIの表示を行わなかった」
内面分析との接続:責任の外部化の構造が最もくっきり現れた事例だ。発表者は「求められていない」、企業側は「演者が開示しなかった」——誰も積極的に隠そうとしていないのに、全員が未開示という結果になった。COI開示はスポンサー企業が管理する責任を持つ。「求めなかった」という不作為が組織的な非開示を生んだ。求める仕組みを設計しなかった企業の責任だ。→ 分析編 vol-08「利益相反の不開示」
組織的逸脱という証言
令和7年度報告書が「営業組織による意図的な取組をうかがわせるものもあった」と記録したことは、この回の論点を直接裏付ける。個人が倫理教育を受けていれば防げた水準の話ではない。上長の承認、組織の方向性、インセンティブ設計——これらが揃ったとき、知識のある担当者でも逸脱は集合的な行動になる。
善意を逸脱に変えない設計の4条件
7年・186件・9カテゴリを通じて浮かぶ設計上の失敗は、裏返すと4つの条件になる。
条件1:心理的安全性——「これはおかしい」と言える環境。担当者が「この説明は問題があるかもしれない」と感じたとき、上長や審査部門に言える文化があるか。朝礼で「数字を上げろ」という圧力をかける上長が、同じ日の夕方に「おかしいと思ったら止めろ」と言っても、どちらのメッセージが行動を決めるかは明らかだ。逸脱の報告が評価を下げるなら、問題は水面下に沈む。安全性情報の省略(vol-06)の多くは、「言いにくい」空気の中で起きている。
条件2:審査の独立——監督部門が「結論ありき」にならない仕組み。販売情報提供活動監督部門が売上目標を持つ部署の傘下にあるとき、審査は形式化する。令和7年度のアレルギー用薬事例は、事前審査というプロセスが存在しながら「時間がない」で省かれた。プロセスが存在することと、そのプロセスが機能することは別物だ。監督部門の独立性と、審査を省く決定に対するコストが設計されているかが問われる。
条件3:誘因の再設計——短期売上以外の軸を評価に組み込む。有効性と安全性をバランスよく伝えた情報提供が評価される仕組みがなければ、不作為の罪は構造的に発生し続ける。「副作用を丁寧に説明したことで採用が延びた」が評価を下げ、「有効性のみを強調して採用が取れた」が評価を上げるインセンティブ設計の下では、教育の効果は限定的だ。患者アウトカム指標や医師からの情報提供満足度を評価軸に加えることは、誘因の方向を変える。
条件4:チェックリストでなく文化——「なぜそのルールがあるか」の共有。チェックリストは最後の網だが、チェックリストだけでは動機づけられた推論は止まらない。「処方日数制限は市販後安全監視のためにある」「COI開示は情報の信頼性評価に必要な前提を聴衆に与えるためにある」——ルールの背景にある理由を担当者が自分の言葉で説明できるとき、局所合理化の余地は狭まる。7年分の事例の中で、抜け穴を使った潜脱は常に、ルールの形式を守りながら趣旨を外れる形で起きた。趣旨への理解が設計の最後の防衛線だ。
この4条件は技術論ではない。「組織がどういう会社でありたいか」という宣言だ。数字だけを追う組織と、患者情報の誠実な媒介者であろうとする組織の違いは、ポスターやコンプライアンス研修ではなく、毎日の評価と承認のあり方に現れる。
つくり手の内側 ── 逸脱が生まれる心理 ── 全 10 章の地図
- 第1回: 重圧の地図 ── 善意が歪むまでの距離
- 第2回: 信条の罠 ── 「良い薬を届けたい」が入口になる
- 第3回: 結論が先、データは後 ── 動機づけられた推論
- 第4回: 「このスライド1枚だけ」── 局所合理化
- 第5回: 語らない、という選択 ── 不作為の罪
- 第6回: 誰かのせいにできる構造 ── 責任の外部化
- 第7回: 数字の重力 ── ノルマとインセンティブの心理
- 第8回: 競合という不安 ── 焦りが他社誹謗を生む
- 第9回: 沈黙する組織 ── 同調圧力・審査の空洞化・開示したくない自分
- 第10回 (本章): 重圧を設計し直す ── 個人の心理と組織の仕組み
- 重圧の構造が設計されるとき、善意は逸脱の燃料になる. 四半期目標・上市期限・KOL関係・競合圧——これらが重なる局面では、「患者のため」という信条そのものが動機づけられた推論を加速させる。7年186件の逸脱は、悪意の不在が安全を保証しないことを示した。
- 審査と誘因は「存在すること」と「機能すること」が別物だ. 事前審査プロセスが「確認時間がない」で省かれ、COI開示が「求めなかった」で全員未実施になった実例が記録されている。ルールを作ることと、そのルールが実際に行動を変えることの間には、組織設計の仕事がある。
- 4条件の核心は「なぜそのルールがあるか」を担当者が自分の言葉で言えるかだ. チェックリストは抜け穴を塞がない。処方日数制限の趣旨が理解されていなければ、倍量処方という「合法的な迂回」は今後も繰り返される。ルールへの知識でなく、趣旨への納得が行動を変える。
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動監視事業 報告書」令和7年度(2025年、資料番号001520054)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動監視事業 報告書」令和3年度(2022年、資料番号000819797)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動監視事業 報告書」令和2年度(2021年、資料番号000652563)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動監視事業 報告書」平成31年度(2019年、資料番号000509783)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」(2019年9月25日、医政経発0925第1号・薬生監麻発0925第1号)
- 日本製薬工業協会「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するコード・オブ・プラクティス」(2019年)
- 厚生労働省「医薬品等適正広告基準」(平成29年9月29日、薬生発0929第4号)
- Kahneman, D. Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux, 2011.
- Edmondson, A. C. The Fearless Organization: Creating Psychological Safety in the Workplace for Learning, Innovation, and Growth. Wiley, 2018.
- Reason, J. Managing the Risks of Organizational Accidents. Ashgate, 1997.