資材審査を通過した50枚のデッキのうち、たった1枚だけを追加する。そのスライドには追加適応では優位性が確認されていないデータが載っている。「テーマとは少し外れるが1枚だけだから」——その自己説明が局所合理化だ。個々の判断を切り離して無害に見せることで、全体として不正確な印象を伝える。嘘はついていない。だから作り手自身が気づきにくい。

So what / So why ── この回の核心

「So what(要するに何が起きるか)」は、主要評価項目が消え、副次評価項目だけが残るという構図だ。1枚のスライドの中で副次評価項目のグラフだけを大きく配置し、主要評価項目は小さく端に追いやる。あるいは、主要評価項目のスライドをそもそも準備しない。口頭説明では副次評価項目の有意差だけを語り、主要評価項目には「触れない」。個別に見ればグレーに映るが、パターンとして見れば明確な選択だ。

「So why(なぜ致命的か)」は、医師が受け取る情報の起点が汚染されるからだ。医師は処方を決める際、MRが見せたグラフと口頭説明を出発点にする。そこで主要評価項目が「なかったこと」になっていれば、どれほど優秀な医師でも有意差のない試験を「有効な薬」として処方することになりかねない。審査報告書を自分で参照しない限り、この「消去」に気づく手立てはない。

局所合理化がとりわけ厄介なのは、作り手が「嘘をついた」と感じないことにある。追加したスライドのデータは本物の臨床試験から来ている。見せなかった主要評価項目も存在はしている。問題は「何を見せて、何を見せなかったか」の選択にある。その選択が積み重なって初めて全体の歪みになるのに、各判断の時点では「部分として問題ない」と感じられる。

重圧の構造 ── 誰から、どの締切で、どんな数字で

四半期ノルマとシェア目標が最も直接的な圧力源だ。追加適応の承認が下りた翌週から説明会の予約が入る。MRは「この半年が勝負」と上司から言われ、地区ごとのシェア達成率を毎月公表される。達成率が数ポイント足りなければ来期のインセンティブが削られる。その数字のプレッシャーが「追加適応で優位性を見せたい」という動機につながる。

分業が責任を希薄化する。スライドデッキを作るのはメディカルアフェアーズ、内容を絞り込むのはブランドチーム、MR研修で教えるのはトレーニング部門、実際に使うのはMR——という4段階の分業では、「全体として医師に何を伝えるか」を一人で見ている人間がいない。各担当者は自分の工程を仕上げることに集中する。メディカルアフェアーズは「副次評価項目である旨を明示した」と言い、ブランドチームは「グラフの大小はデザイン上の選択だ」と言い、MRは「準備されたスライドを使っただけだ」と言う。

上長承認が自己検閲を溶かす。スライドデッキは上司が確認し承認した。説明会に上司が同席することもある。「組織として認めたこと」という感覚が生まれると、個人の判断の重みが薄れる。令和7年度の監視事業報告書には、上司が同席した説明会で他社製品を誹謗した事例が記録されており、上長の存在が逸脱の抑止になるどころか場の正当性を担保してしまった構図を示している。

納期が認知の幅を狭める。追加適応の承認から資材審査の締切まで2週間、MR研修まで3週間というスケジュールでは、「このデータをどう伝えるべきか」より「このデータをどうスライドに収めるか」が判断の中心になる。「1枚追加すれば伝わる」は時間的余裕がないときに最も疑われない。

内面の再構成 ── 信条→心情→深層心理

信条(何を正しいと信じたか)は「この薬の追加適応は患者に選択肢を広げる。医師に知ってもらうことが自分の仕事だ」だったはずだ。追加適応の承認は、少なくとも当該適応における一定の有効性と安全性を審査機関が認めた証拠と映る。「良いものを届けたい」という出発点は、この時点では誠実だ。

心情(その時の感情)は「資材審査を通ったスライドがある。上司も確認した。1枚だけ追加すれば、追加適応でも優位性があると伝えられる。テーマとは少し外れるが、承認されたばかりの今が最大のチャンスだ」という焦りと確信の混合だったと推測できる。追加したスライドのデータが「従来の適応のもので、追加適応では非劣性しかない」という事実は、頭のどこかにある。しかしその事実を前景に出すよりも、目の前の会話の流れで「見せる」判断が優先される。

深層心理には4つのドライバーが重なっている。

まず②局所合理化(「1枚だけ」)。問題の核心はここにある。1枚の追加を「部分」として扱うことで、全体の印象への責任が意識から消える。「勉強会のテーマとは若干外れた内容のスライドをプレゼンテーションの中で紹介されることで、誤認の恐れがあった」と報告書が指摘するように、受け手の認知では全体文脈の中の1枚として機能するのに、作り手の意識では「ただの追加」として分離されている。

次に③不作為の罪(語らない、聞かれるまで言わない)。主要評価項目のスライドを準備しなかった担当者は「見せなかった」のではなく「テーマに合わなかったから入れなかった」と説明するだろう。「聞かれなかったから言わなかった」という消極的な不開示は、積極的な虚偽と心理的距離が大きい。だから罪悪感が生じにくい。

そして④責任の外部化。有意差がないことを医師に指摘されたとき、「○○教授も十分な効果が期待できると言っているので問題がない」と専門家の言葉を持ち出す。選択の責任をKOLに転嫁することで、自分は「情報を伝えた仲介者」の位置に退く。日本人サブグループしか見せなかったMRが「医師は日本人データを求めるため」と説明したケース(平成31年度②-13)も同じ構造だ——受け手の需要を理由に、自分の選択を正当化する。

背景には①動機づけられた推論(結論先・データ後)がある。「この薬は有効だ」という結論を先に固め、それを支持するデータを探す。主要評価項目で有意差が出ていなくても、副次評価項目か日本人サブグループか長期投与継続例のどこかに良い数字は見つかる。そのデータを前面に出すことは「嘘をついた」ではなく「良い情報を選んだ」と感じられる。

下敷きの実インシデント

事例1 ── 代謝調節剤「1スライドだけ」(令和6/7年度)

厚労省監視事業報告書(令和6年度・令和7年度)に同一事例として記録されている。代謝調節剤の追加適応が承認された後、モニター医療機関で勉強会が開催された。担当MRが当該医薬品と腫瘍崩壊症候群に関する説明をする中、報告書に次の記述がある。

「1スライドだけではあるが、既存薬との比較試験のデータを示し、『既存薬に対し当該医薬品は優位性を持っている』と説明した。しかし、このデータは従来の適応のものであって、追加された適応のものではなく、さらには追加された適応では既存薬に対する非劣性のデータしかなかった。勉強会のテーマとは若干外れた内容のスライドをプレゼンテーションの中で紹介されることで、誤認の恐れがあった」

「1スライドだけ」という言葉が報告書に直接登場する数少ない事例だ。追加適応では非劣性しかないにもかかわらず、従来適応の優位性データを「1枚」として差し込む——この行為の問題は、担当者が局所合理化の典型的な言語を使っていることにある。「1枚だけ」は矮小化の修辞だ。チェリーピッキングの分析編(分析編 vol.02)も参照。

事例2 ── 関節機能改善薬、副次評価項目を大きく(令和4年度)

令和4年度報告書②-2。関節機能改善薬のオンライン製品説明会で企業担当者が示したスライドと口頭説明が問題とされた。報告書のポイントは明確だ。

「説明時のスライドにおいて1枚の中に主要評価項目よりも副次評価項目のグラフを大きく記載していた」「説明時には副次評価項目の結果であることには言及しないまま、副次評価項目を用いて有効性を説明した」

1枚のスライドの中でグラフの大小を操作するという手法は、資材審査の目をくぐりやすい。「両方載っている」という事実は存在するが、受け手の視線は大きいグラフに引き寄せられる。「副次評価項目の結果であることには言及しないまま」という点は③不作為の罪の典型例でもある。チェリーピッキングの分析編(分析編 vol.02)に詳細を収録している。

事例3 ── 主要評価項目のスライドを準備せず、KOL転嫁(令和7年度)

令和7年度報告書は、局所合理化と責任の外部化が連鎖した2件を続けて記録している。

まず有効性のみ強調した事例として「K社のMRとのオンライン面談において、主要評価項目についてはスライド資料も準備せず、有意差が認められた副次評価項目のみについて説明を行った」とある。準備しなかったという事実は、選択の意図を示している。「忘れた」のではなく「このテーマには副次評価項目の数字が適切だ」と判断した可能性が高い。

続けて報告書に記載されるL社の事例では、④責任の外部化が露骨に現れる。「L社の企業担当者は日本人集団のサブグループ解析結果のスライドをもとに、有意差がなかったにもかかわらず『日本人でもしっかりと差が出ている』と説明した。有意差がないことが医療従事者から指摘されると、『○○教授も十分な効果が期待できると言っているので問題がない』と専門家の言葉を借りて有効性を説明した」。指摘を受けた瞬間に自分の判断をKOLの権威に乗り換える——これは②局所合理化から④責任の外部化への切り替えがリアルタイムで起きている場面だ。

つくり手の内側 ── 逸脱が生まれる心理 ── 全 10 章の地図

  1. 第1回: 重圧の地図 ── 善意が歪むまでの距離
  2. 第2回: 信条の罠 ── 「良い薬を届けたい」が入口になる
  3. 第3回: 結論が先、データは後 ── 動機づけられた推論
  4. 第4回 (本章): 「このスライド1枚だけ」── 局所合理化
  5. 第5回: 語らない、という選択 ── 不作為の罪
  6. 第6回: 誰かのせいにできる構造 ── 責任の外部化
  7. 第7回: 数字の重力 ── ノルマとインセンティブの心理
  8. 第8回: 競合という不安 ── 焦りが他社誹謗を生む
  9. 第9回: 沈黙する組織 ── 同調圧力・審査の空洞化・開示したくない自分
  10. 第10回: 重圧を設計し直す ── 個人の心理と組織の仕組み
Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 「1枚だけ」は矮小化の修辞だ。 追加したスライドが「部分」として扱われる限り、全体の印象への責任は作り手の意識から消える。令和6/7年度報告書の「1スライドだけではあるが、既存薬に優位性を持っている」という事例は、局所合理化が言語として現れた数少ない記録だ。
  2. 主要評価項目を「準備しない」は積極的な選択だ。 有意差が出なかった主要評価項目のスライドを作らず、副次評価項目のグラフだけを持参したMRの行為(令和7年度K社)は、不作為に見えて実は情報の設計だ。医師は「見せられなかったもの」の存在を知らない。
  3. 責任の外部化は指摘された瞬間に起きる。 有意差がないことを医師に指摘されて「○○教授も効果が期待できると言っている」と返す行動(令和7年度L社)は、自分の判断をKOLの権威に乗り換える局所合理化の延長だ。選択の責任が自分から離れた時点で、修正の機会も失われる。
出典・参考文献
  1. 厚生労働省「医薬品の販売情報提供活動監視事業報告書」令和4年度(事業番号:reiwa4)
  2. 厚生労働省「医薬品の販売情報提供活動監視事業報告書」令和6年度(事業番号:001272195)
  3. 厚生労働省「医薬品の販売情報提供活動監視事業報告書」令和7年度(事業番号:001520054)
  4. 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」(平成31年9月25日)第2の2(2)①・第2の3(2)③
  5. 日本製薬工業協会「医療用医薬品製品情報概要等に関する作成要領」(主要評価項目・副次評価項目の明示義務)
  6. 日本製薬工業協会「製薬協コード・オブ・プラクティス」
  7. Kunda, Z. (1990). The case for motivated reasoning. Psychological Bulletin, 108(3), 480–498.
  8. Bandura, A. (1999). Moral disengagement in the perpetration of inhumanities. Personality and Social Psychology Review, 3(3), 193–209.(道徳的離隔と責任の分散)