「適切な情報を届けたい」という思いが、一人の担当者の心の中にだけ宿っている限り、その人が異動した日に薄れ、四半期末の重圧が最高潮に達した夜に折れる。7年間にわたって報告書に記録された逸脱事例の多くは、悪意によるものではなかった。誠実さへの意志があっても、それを支える仕組みがなければ重圧に削られていく。個人の良心を、誰が担当になっても機能する文化に移し替えること——そこにこの信条の核がある。
So what / So why ── なぜこの信条が要るか
令和7年度の報告書には、こう書かれている。「競合が激しい医薬品などについて、一部の企業で、組織的に不適切な販売情報提供活動を行っていると疑われる事例が散見された」。これはMRが個人的に踏み外したという話ではない。営業組織として方向性が揃っていた、ということだ。
同じ報告書に記録されたアレルギー用薬の事例を見てほしい。製薬企業主催の講演会で、演者の医師が承認された用法用量と異なる投与法を繰り返し紹介し、他社製品をエビデンスなしに否定するスライドを配信した。このとき「販売情報提供活動監督部門による事前の審査を経ないまま、希望する受講者に対して配信した」と記録されている。理由は「確認時間がないことを理由に」。問題が発覚した後も、受講者全員を対象とした是正活動は行われなかった。審査という仕組みは存在していた。ただ、機能しなかった。
「仕組みがある」と「仕組みが機能している」は、別のことだ。チェックリストがあっても、承認書類があっても、それが締切の重圧の下で省かれるなら、仕組みと呼べない。逆に、チェックリストがなくても「これはおかしい」と言える空気があれば、多くの逸脱は止まる。個人の良心を仕組みに変えるとは、その空気を設計することだ。規則の追加ではなく、その規則が誰に頼まれなくても守られるような環境をつくることを指す。
信条 ── こうありたい
私は、「自分だけが正しいやり方を知っている」という状況を怖いと思う。知識が私の頭の中にしかないなら、私がいなくなった日にそれも消える。誠実さが私の気持ちの中にしかないなら、締切が迫った夜に私自身が最初に諦める。
だから私は、自分の判断の根拠を言語化しておきたい。「このデータを両面提示するのは、なぜか」「この承認外の説明を断るのは、なぜか」——理由を自分の言葉で説明できないまま習慣だけで動いていると、その習慣は重圧の前で脆い。理由が分かっていれば、迷いながらでも踏みとどまれる。
正直なところ、私は仕組みをつくれる立場にないことが多い。審査部門の設計を変えられるわけでもなく、評価制度を書き換えられるわけでもない。それでも、私が担当するチームの範囲で、私が後任に伝えられる範囲で、「なぜそのルールがあるか」を話してきたか。問われたときに「上が言ったから」以外の答えを持っていたか。そこから始めるしかない。
私の誠実さが、私の後任にも、そのまた後任にも伝わるものであってほしい。それが、この信条で私が目指すことだ。
日々の実践 ── 具体的な行動とチェック
- 「なぜ」を一言添える習慣。チェックリストの項目に「有効性と安全性の両面を記載すること」とあるとき、後任や同僚に渡す際に「なぜこの項目があるか」を一文加える。規則の背景が伝わらないと、次の人が重圧に負けた時に省かれる。
- 自分の言葉で説明できるか、月に一度確認する。「処方日数制限はなぜあるか」「COI開示はなぜ必要か」を、研修テキストを見ずに説明できるか。できなければ、その項目は自分の中でもまだ仕組みになっていない。
- 事前審査の「形式」と「実質」を区別する。審査が通ったことを確認するだけでなく、審査者が内容を読める時間と情報を持っていたかを問う。令和7年度の事例でも、「時間がなかった」が理由で審査が省かれた。締切が迫った時こそ、「今これを省いたら何が通り抜けるか」を具体的に考える。
- 「おかしい」と感じた感覚を記録する。言い出せなかった場面でも、「これは気になった」という感覚を書き留めておく。次に同じ局面が来た時に備える。感覚を記録する行為は、自分の判断基準を言語化する訓練でもある。
- 引き継ぎ時に「事例」を渡す。業務の引き継ぎには手順書だけでなく、「この局面で迷ったこと」「この判断に至った理由」を添える。後任が同じ重圧の下に立ったとき、手順ではなく考え方が役に立つ。
- 「上長が承認した」を判断の終点にしない。承認プロセスを経た資材でも、「この内容は科学的に正確か」「有効性と安全性は両面示されているか」を自分でも確認する。責任が分散するほど、誰も最終確認をしない構造が生まれやすい。
試される場面 ── 重圧の下で
この信条が最も試されるのは、「時間がない」「数字が足りない」「先生との関係が壊れるかもしれない」という三つが重なる局面だ。
四半期末の残り2週間、競合品がすでに採用されている施設で、演者のスライドに問題を発見した。審査部門に差し戻せば講演会の日程に間に合わない。「大きな問題でもないかもしれない」「先生も了承しているし」——この時点で、良心はもうひとつの声と交渉を始めている。第2シリーズvol-10「重圧を設計し直す」が詳しく分析しているように、この局面で一人の誠実さだけを頼みにする構造には、最初から無理がある。組織が「止めることへのコスト」を下げておかなければ、個人は合理的な判断として省略を選ぶ。
とはいえ、組織設計が整うまで何もできないわけでもない。「これは後で問題になると思う」と口に出す練習は、今日からできる。根拠を一文書いて残す習慣も、今日からできる。正式な審査プロセスを動かせなくても、問題を記録して次の担当者に伝えることはできる。
線を引く判断は、いつも一人でしなければならない瞬間がある。そのとき頼りになるのは、重圧がかかる前に自分の中で言語化しておいた「なぜ」だ。「時間がないから省いても大丈夫」という声に対して、「省いた先に何が起きるか」を具体的に想像できるかどうかが、分岐を決める。
拠り所 ── 折れそうな時に立ち返る
販売情報提供活動ガイドラインは、その基本的考え方として「科学的・客観的根拠に基づく」「有効性と安全性の両面から正確に」「公正な競争の観点から行われる」「利益相反関係の透明性」という四つの原則を示している。これは禁止事項の羅列ではなく、「医療に携わる情報の媒介者として何を守るか」の宣言だ。
令和7年度に記録されたアレルギー用薬の事例では、承認外の用法を繰り返し紹介し、根拠なく他社製品を否定し、安全性への言及を欠いたまま「安全、簡単、患者メリット大」と締めくくるスライドが、事前審査なしに配信された。問題発覚後も全受講者への是正活動は行われなかった。詳細は分析編vol-09「その他の不適切な営業手法」に記録されている。これを読むと、「個人の誠実さがあれば防げた」という種類の失敗ではないことが分かる。審査の仕組みが機能していれば、この情報は止まっていた。
折れそうな夜に立ち返る場所は、制度の細目ではなく、この原則の意味だ。科学的根拠に基づくとは、都合のいいデータだけを見せないということ。安全性と有効性の両面とは、よく効くという話と同じ分量でリスクを伝えるということ。利益相反の透明性とは、聴衆が情報の出どころを評価できるよう、隠さないということ。これらは守るのが難しい場面でこそ意味を持つ。
「自分がいなくなっても、この原則は機能しているか」——その問いを持ち続けることが、良心を仕組みに変えていく。
こうありたい ── 資材作成者の10の信条 ── 全 10 章の地図
- 第1回: 科学的根拠の管理者 ── 私は売る人ではない
- 第2回: 読み手の頭の中に責任を持つ
- 第3回: 結論を疑う良心 ── データに先導される
- 第4回: 全体に署名する ── 1スライドでなく文書全体
- 第5回: 語る義務 ── 有効性と安全性を対等に
- 第6回: 引き受ける ── 「医師が判断する」で逃げない
- 第7回: 数字との正しい距離 ── ノルマは制約、目的ではない
- 第8回: 競合他社への敬意 ── フェアプレーが信頼をつくる
- 第9回: 開かれていること ── Limitation(限界)・不確実性・利益相反を自ら言う
- 第10回 (本章): 良心を組織の仕組みに埋め込む ── 個人から組織へ、見える形で残す
- 良心は個人の中に留まると移動に弱い. 担当者が異動し、重圧が高まり、締切が迫るたびに、個人の誠実さだけに依存した仕組みは折れる。令和7年度に記録された講演会事例は「確認時間がないことを理由に」事前審査が省かれたことを示す——個人の判断ではなく、構造の失敗だ。
- 「ルールがある」と「ルールが機能している」は別のことだ. チェックリストも承認書類も、それが重圧の下で省かれるなら仕組みと呼べない。問われるべきは、審査を省く判断に対してコストが生じる設計があるか、「おかしい」と言える空気があるか、という点だ。
- 担当者がルールの「なぜ」を自分の言葉で語れるかが文化の指標だ. 処方日数制限の趣旨、COI開示の意味、両面提示の必要性——これらを手順書なしに説明できる人が増えるほど、局所合理化は起きにくくなる。知識でなく納得が、重圧の下での行動を変える。
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動監視事業 報告書」令和7年度(2025年)
- 厚生労働省「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン」(2019年9月25日)
- 日本製薬工業協会「医療用医薬品の販売情報提供活動に関するコード・オブ・プラクティス」(2019年)
- 厚生労働省「医薬品等適正広告基準」(平成29年9月29日、薬生発0929第4号)
- Edmondson, A. C. The Fearless Organization: Creating Psychological Safety in the Workplace for Learning, Innovation, and Growth. Wiley, 2018.
- Reason, J. Managing the Risks of Organizational Accidents. Ashgate, 1997.