感じたリスクを全部書くのは、誠実さなのか、それとも自分を守るための保険なのか。書き漏らして責任を問われる怖さは本物だ。だからこそ、その怖さを否定せずに正面から扱いたい。不安は敵ではなく信号だと言ったのはフロイトだった。この文章は、その信号の読み方の話である。
01送信ボタンの前で――二十三件のコメントは誰のためか
金曜の夕方だった。新しい説明資材の審査を終えて、コメント一覧を上から数えたら、二十三件あった。画面の右下には送信ボタン。マウスのカーソルはその上にあるのに、指が動かない。私はもう一度、一件目から読み返し始めた。
読み返すと、コメントの中身が均一でないことに気づく。三件か四件は、本当に危ない。エビデンス(=主張の裏づけになるデータ)の引用範囲が承認内容からずれている。比較の見せ方が誤解を招く。この種の指摘は削れない。だが残りの大半は、正直に言えば「念のため」だ。この言い回しは前例があるから通るはずだが、いちおう注意を促しておく。この図は問題ないと思うが、解釈の余地がゼロではないから触れておく。そういうコメントが十数件、いちばん重要な指摘と同じ顔をして並んでいる。
削ればいい、と頭では分かっている。作成者は二十三件を前にして、どれが本当に危ない指摘なのか読み分けられないかもしれない。警告が多すぎる警報盤は、警告がない警報盤と同じくらい役に立たない。それでも、カーソルは「念のため」の一件の上で止まり、削除できないまま次の行へ移る。もしこの一件を消して、あとで問題になったら。その想像が、指を止める。
コメントを書くときの不安には、二つの形がある。一つは、言うべきことがあるのに言葉にできない不安。もう一つは、書かなくてもいいことまで全部書いてしまう不安。今回は後者の話だ。「書けない」と「書きすぎる」は正反対に見えて、根は同じところにあるのではないか。それが今回の問いになる。
先に一つだけ予告しておく。この文章は「不安をなくす方法」の話ではない。不安は、これから見ていくように、なくすべき故障ではなく、読み取るべき信号だからだ。問題は不安があることではなく、不安を私ひとりで抱え込んだまま、二十三件を書き続けることのほうにある。
02不安は警報である――フロイトの信号理論
「もしこの指摘を書き漏らして、資材がそのまま世に出て、あとで当局から照会が来たら」。そう想像した瞬間、胃のあたりが重くなる。審査の仕事をしている人なら、この感覚に覚えがあるはずだ。私は長いこと、これを自分の弱さだと思っていた。経験を積めば消えるはずの、未熟さの印だと。
その見方を変えてくれたのが、晩年のフロイト(=精神分析の創始者。19世紀末から20世紀前半に活動した医師)だった。フロイトは1926年の『制止、症状、不安』という本で、それまでの自説をひっくり返している。若い頃の彼は、不安を「抑え込んだ欲求のなれの果て」、つまり行き場を失った欲求が漏れ出たものと考えていた。ところが後期になって、こう言い直した。不安とは、自我(=心の中で現実との折り合いをつける司令塔の部分)が危険を先取りして鳴らす信号である、と。これが不安の信号理論(=不安は故障の産物ではなく、危険を予告するために心が自分で鳴らす警報だという考え)だ。
この読み替えは、現場の実感によく合う。胃が重くなるのは、心が壊れているからではない。「この先に危険があるかもしれない」と司令塔が予告を出しているからだ。火災報知器が鳴るのは報知器の故障ではなく、煙を検知したからだ。それと同じで、警報そのものはむしろ正常に働いている証拠になる。書き漏らしの想像で不安になれる人は、危険を先取りする回路がきちんと動いている人だ。責任の重い仕事で不安を感じない人のほうが、私にはよほど怖い。
ただし、フロイトの理論には続きがある。信号としての不安は、本来「少量」で機能するものだ。煙を検知したら鳴って、対処が始まったら止まる。それが警報の正しい姿だ。ところが私の金曜の夕方はどうか。警報は一件目のコメントを書く前から鳴り始め、二十三件目を書き終えても鳴りやまない。鳴りっぱなしの警報の下で書かれたコメントは、危険の在り処を指し示す信号ではなく、警報を黙らせるための気休めになっていく。「念のため」の十数件は、資材のリスクに対する応答ではなく、私の不安に対する応答だったのだ。
だから、最初にやるべきことは警報を憎むことでも、無視することでもない。「いま鳴っている」と認めることだ。怖いものは怖い。書き漏らしたら大変なことになるかもしれない、という想像は、この仕事の性質上、正しい想像でもある。そこを否定せずに認めたうえで、次の問いに進みたい。鳴りっぱなしの警報を、どうすれば「必要なときに鳴る警報」に戻せるのか。その鍵は、私ひとりの心の中にはない。
03「全部書く」は防衛かもしれない――防衛機制と投影
二十三件のコメントを見直したとき、どうしても削れない数件があった。たとえば文面はこうだ。「この表現は直ちに問題とは言えませんが、念のため根拠の追記をご検討ください」。読み返すと、自分でも歯切れの悪さが分かる。問題だと思うなら、そう書けばいい。思わないなら、書かなければいい。この中間の一文は、資材のために書いたのか。それとも、後で「なぜ指摘しなかったのか」と問われたときの私のために書いたのか。
フロイトが唱え、娘のアンナ・フロイトが整理した概念に、防衛機制(=不安から心を守るために、無意識に働く心の工夫)がある。人は耐えがたい不安をそのまま抱えられない。だから心は、気づかないうちに不安を加工する。忘れる、理屈をつける、別の何かのせいにする。どれも意識してやっているのではない。だからこそ本人には見えにくい。
「全部書く」も、この見方で見直せる。指摘漏れを問われる不安。それを正面から抱える代わりに、コメントの数で埋める。一件書くごとに、不安が少し軽くなる気がする。だが軽くなっているのは資材のリスクではなく、私の不安のほうだ。コメントが資材を守っているのか、私を守っているのか。この二つは、文面の上では見分けがつかない。だから件数だけを見て「丁寧な審査だ」と安心するのは危うい。
もう一歩踏み込むと、投影(=自分の中の不安や欠点を、自分のものと認めず、相手の側にあると感じてしまう心の働き)という機制がある。私が「この資材は危うい」と感じるとき、危ういのは本当に資材か。それとも、私の中の「見落としたくない」という不安が、資材の上に映って見えているだけか。あの「念のため」の数件を思い出すと、根拠は資材の文言ではなく、私の胸の内にあった気がしてならない。
誤解のないように書いておく。防衛機制は病気ではないし、悪でもない。誰の心にもある普通の仕組みだ。それに、審査のコメントを一つひとつ精神分析にかける必要もない。ただ、削れないコメントに出会ったとき、一度だけ問えばいい。「これは資材の話か、私の話か」。この一問だけで、二十三件のうちの何件かは、静かに消えていく。
04作成者への苛立ちの出どころ――ユングの影
正直に書く。「なぜこんな表現を通そうとするのか」と、作成者に苛立った日がある。データの一部だけを切り出した、都合のいいグラフ。エビデンスの弱い箇所ほど、言い回しが自信ありげになる。その日の私のコメントは、いつもより一段きつかった。指摘の中身は正しかったと今でも思う。だが文面には、正しさ以外のものが混じっていた。
ユング(=フロイトと並ぶ心理学者、カール・グスタフ・ユング)は、影(シャドウ、=自分が認めたくない、自分の中のもう一つの側面)という考えを残した。ユングによれば、他人に対して不釣り合いに強い感情が湧くとき、その相手は自分の影を映す鏡になっていることがある。相手の欠点に見えるものが、実は「自分の中にもあるが、認めたくないもの」だという指摘だ。
この物差しを自分に当ててみる。締切に追われ、上司に急かされ、それでも数字を良く見せたい。作成者のその事情は、私と無縁だろうか。私だって、審査の締切が重なった週には、コメントを一件くらい浅く済ませたい誘惑と戦っている。近道をしたくなる自分。それを認めたくないから、近道をした(ように見える)相手に、不釣り合いな苛立ちが湧く。あの日のきつい文面は、資材への指摘であると同時に、「自分は違う」と言い張るための言葉だったのかもしれない。
- 苛立ちが混じったコメントは、内容が正しくても届かない。作成者はまず語気に反応し、身構え、指摘の中身は二の次になる。
- 逆に、影に気づいたあとのコメントは一段静かになる。「なぜこんな表現を」ではなく「この表現だと読者はこう受け取ります。ここを直せば通ります」と書ける。
- 静かな文面は、譲歩ではない。指摘の水準は落とさず、余計な熱だけを取り除く作業だ。
影は消せない。ユング自身、影をなくすことではなく、影があると知って付き合うことを説いた。私にできるのは、強い苛立ちが湧いた瞬間に「この熱の何割かは、私の側の話ではないか」と一拍おくことだけだ。その一拍が、コメントの文面を変える。そして文面が変われば、作成者との関係も、資材の直りかたも変わる。審査の質は、知識の量だけでなく、この一拍を持てるかどうかにもかかっている。
05同じ資材でも見えるものが違う――ユングのタイプ論
去年の秋、新しい経口薬の説明資材を、同僚と二人で並行して審査したことがある。同じPDF、同じ添付文書(=その薬の公式な注意書き)、同じ締切。上がってきた指摘を突き合わせて、私は少し動揺した。二十件あまりのコメントのうち、重なったのは三件だけだった。私はグラフの縦軸の切り方と、比較試験の対象が古い薬であることばかり見ていた。同僚は、医師が患者に説明する場面を想像して「この言い回しは高齢の患者に誤解されないか」を延々と拾っていた。どちらも間違っていない。ただ、見ている場所がまるで違った。
最初に浮かんだのは「私は何かを見落とす人間なのか」という不安だった。けれど、この現象には百年前から名前がついている。ユングは1921年の『心理学的類型』で、人の心の働きには型があると論じた。関心が外の世界に向かう外向と、内側に向かう内向。そして情報の受け取り方と判断の仕方に四つの機能(=心の道具立て)がある。審査の話に効くのは、感覚と直観の対だ。感覚型の人は目の前の事実や数字を細かく拾う。グラフの縦軸のごまかしに最初に気づくのは、この目だ。直観型の人は「この資料が診察室でどう使われ、どう転がるか」という可能性を先に見る。高齢の患者の聞き間違いを想像したのは、この目だ。残る対として、論理のつじつまで判断する思考型と、人にとっての価値や影響で判断する感情型があるが、ここでは名前だけにとどめる。
ここで注意したいのは、ユングのタイプ論は雑誌の性格診断のように「あなたは何型」と人を箱に入れるための道具ではない、ということだ。ユング自身、純粋な型の人間はいないと繰り返し書いている。私がこの理論から借りたいのは一点だけ。知覚と判断の型が違えば、同じ資材から見えてくるリスクの像も違う、という点である。私がグラフの軸に引っかかり、同僚が患者の耳に引っかかったのは、能力の差ではなく型の差だった。数字を先に見る目と、使われる場面を先に見る目は、訓練でいくらか広げられても、完全には交換できない。
そう考えると、序盤からずっと抱えてきた「全部書かなければ」という不安の土台が、静かに崩れる。「私が感じたリスク」は、そもそも部分でしかなかったのだ。私の型というレンズを通った像であって、資材に潜むリスクの全体ではない。全体は、私の視野の外、つまり同僚の型が拾う領域にも広がっている。だとすれば、私一人が指摘を百件に増やしても、それは同じ目で見る回数を増やしているだけで、見えない場所は見えないままだ。
ここがこの文章の折り返し点だ。共通のリスク、つまり組織として本当に潰すべきリスクの像は、一人の視野からは出てこない。違う型の目を突き合わせて、初めて輪郭が現れる。三件しか重ならなかったあの日の指摘一覧は、私の欠陥の証拠ではなく、審査という仕事が最初から複数の目を前提に設計されるべきものだという証拠だった。そう読み替えたとき、問いは「どうすれば全部書けるか」から「私の部分を、どうやってみんなの全体につなぐか」に変わる。
06「私のリスク」を「共同体のリスク」へ――アドラーの共同体感覚
つなぐための物差しを、私はアドラー(オーストリアの精神科医、1870-1937)から借りている。彼が晩年まで磨き続けた概念に、共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl、=自分の行動が自分だけでなく共同体全体の利益になっているか、という感覚)がある。人は共同体の中でしか生きられないのだから、行動の値打ちは「それが共同体の役に立つか」で測れる、という考え方だ。抽象的に聞こえるが、審査コメントの選別基準に翻訳すると、驚くほど実用的な道具になる。
やり方は単純で、書き上げたコメントを送信する前に、一件ずつこう問い直す。「この指摘は、患者と医療者と会社の、誰のどんな利益を守るのか」。声に出して答えられるコメントは残す。答えに詰まるコメントは、たいてい私の防衛、すなわち「見落としたと言われたくない」という自己保身のために書いた一行である。実際にやってみると、線引きはたとえばこうなる。
- 「副作用の頻度を本文にも明記すべき」→ 患者が不利益な選択をしない利益、医療者が説明責任を果たせる利益を守る。残す。
- 「この表現は誇大広告(薬機法66条)と取られる余地がある」→ 会社を行政指導から守り、結果として情報の信頼を守る。残す。
- 「念のため、この段落全体の再確認をお願いします」→ 誰の利益か言えない。何かあったとき「指摘はした」と言うための保険。削る。
この問い直しの土台には、よく対比されるように、フロイトとアドラーの立場の違いがある。フロイトは、人の行動を過去の原因から説明する。この見方なら、私の不安は「過去に見落としを指摘された経験が原因」と説明される。説明としては正しいのかもしれないが、原因は過去にあるから、もう動かせない。アドラーは逆に、行動をこれから先の目的から説明する。「私は何のためにこのコメントを書くのか」と問う。原因は変えられないが、目的は今この場で選び直せる。私が保険のコメントを書くのは、過去のせいではなく「責められない自分」という目的を選んでいるからだ。ならば「患者と医療者を守る」という目的に、選び直せばいい。この対比を持ち出すのはこの一度きりだが、私の不安との付き合い方を根本から変えてくれた。
共同体感覚を物差しにすると、コメントの数は減る。最初は怖い。けれど残った指摘は、どれも「誰を守るか」を一言で言える指摘になる。受け取る資材作成者にとっても、百件の防衛より二十件の理由ある指摘のほうが、直す手が動く。私のリスクが、良心を通って、みんなのリスクに変わる。翻訳とは、たぶんこういう作業のことだ。
07課題を分けて、それでも信じる――勇気づけと送信ボタン
金曜の夕方、書き上げたコメント欄をもう一度見る。七件。多い。読み返すと、そのうち三件は「私が安心したいだけ」のコメントだった。誤字の可能性の指摘、体裁の好み、念のための確認。書けば私の不安は減る。だが受け取る作成者の側から見れば、直す義務のない指摘が三件増えるだけだ。
ここで思い出すのが、アドラー心理学で言う「課題の分離」(=自分が引き受ける課題と、相手の課題を分けて考えること)だ。私の課題は、リスクを見つけて、伝わる形で手渡すことまで。手渡されたコメントをどう受け止め、どう直すかは、作成者の課題だ。そこまで私が抱え込むと、コメントは長くなり、口調は命令に近づき、相手の考える余地を奪う。全部書いて縛るのは、審査ではなく管理だ。管理されたと感じた人は、次から「言われたことだけ直す」ようになる。それは資材の質にとって、いちばん損な結果だと思う。
アドラー心理学にはもうひとつ、「勇気づけ」(=相手が自分で解決する力を信じて関わること)という考えがある。褒めることでも、指示することでもない。「あなたなら、この理由を読めば適切に判断できるはずだ」という前提で言葉を渡すことだ。だから私のコメントの役目は、指摘の数を増やすことではなく、共通のリスク(患者さんと会社が本当に困る点)を短く、理由つきで手渡すことに絞られる。残りは相手の判断力を信じる。信じるのは楽観ではない。何を渡し、何を渡さないかを選び抜いた上での、意図的な引き算だ。
- 私の課題:リスクを見つける。理由を添えて、短く手渡す。
- 作成者の課題:受け取った理由をもとに、直し方を決める。
- 共通の課題:患者さんに誤解が届かないこと。ここだけは一緒に持つ。
私は三件を削った。残した一件には、「なぜこれが引っかかるのか」を二行だけ書き足した。承認基準ではなく、実際に起きうる誤読を示した二行だ。コメント欄は短くなったのに、伝わる量は増えた気がする。そして冒頭のあの場面に戻る。送信ボタンの前で、指が一瞬止まる。不安の警報は今日も鳴っている。あれは消えない。消えないのが正常だと、この一週間で分かった。警報は「全部書け」と言っているのではない。「本当に危ないものを選べ」と言っている。私はその読み方をようやく覚えた。ボタンを押す。私のリスクは、みんなのリスクになった。
- 書き漏らしの不安は弱さではなく、危険を先取りする心の信号(フロイトの信号理論)。ただし鳴りっぱなしの警報の下で書くコメントは、リスクへの応答ではなく不安への応答になる。「鳴っている」と認めることから始める。
- 削れないコメントには一度だけ問う。「これは資材の話か、私の話か」「患者と医療者と会社の、誰のどんな利益を守るのか」。答えに詰まる一件は指摘ではなく、自分を守る保険である可能性が高い。
- 私が感じたリスクは、私の型を通った部分でしかない(ユングのタイプ論)。一人で百件書くより、違う型の目と突き合わせて共通のリスクを絞り、理由つきで短く手渡す。残りは作成者の判断力を信じる(課題の分離と勇気づけ)。
- フロイト, S.(加藤敏ほか訳). 制止、症状、不安(フロイト全集19). 岩波書店, 2010.(不安の信号理論の原典)
- フロイト, A.(外林大作訳). 自我と防衛. 誠信書房, 1985.(防衛機制の体系的整理)
- ユング, C.G.(林道義訳). タイプ論. みすず書房, 1987.(心理学的類型の原典)
- ユング, C.G.(松代洋一・渡辺学訳). 自我と無意識. 第三文明社, 1995.(影と投影の入門的原典)
- アドラー, A.(岸見一郎訳). 人生の意味の心理学(上・下). アルテ, 2010.(共同体感覚の主著)
- アドラー, A.(岸見一郎訳). 個人心理学講義. アルテ, 2012.(目的論と勇気づけの講義録)
- 岸見一郎・古賀史健. 嫌われる勇気. ダイヤモンド社, 2013.(課題の分離の平易な解説)
- 前田重治. 図説 精神分析を学ぶ. 誠信書房, 2008.(フロイト理論の見取り図)
- 河合隼雄. ユング心理学入門. 培風館, 1967.(影とタイプ論の日本語定番入門)