01褒められた記憶を探してみた
資材(=医師や薬剤師に渡す説明用のパンフレットなど)の審査を、私は長くやってきた。先日、部署の若手に聞かれた。「この仕事、やりがいはありますか」。私は少し考えて、正直に答えた。「褒められた記憶を、いま探している」。
まったくない、と言えば嘘になる。監査を乗り切った後や、当局からの照会をうまく捌いた後に、上司から礼を言われたことはある。ただ、資材を作った側や現場のMR(=医療機関を回る営業担当者)から「よく止めてくれた」と言われたことは、まずない。
私たちの仕事は、委員会で揉んで、差し戻して、直してもらって、ようやく通す。その繰り返しだ。そして最高の成果は、「何も起きない一日」である。行政や業界団体から指摘が来ない。監視事業(=国が委託して、逸脱した販売活動を匿名で報告させる仕組み)に載らない。医療者からの苦情も来ない。それが審査の満点なのだが、満点の日は、誰の目にも何も映らない。
これは誰かの怠けではなく、仕組みの癖だと思う。多くの会社の物差しは、成果を上に伸びる線で捉える。売上のグラフは見える。新製品の発売日はカレンダーに載る。だが「起きなかった事故」は、どこにも記録されない。称えられていいはずの成果が、水面の下に沈んでいる。
02目が向くのは、しくじった日になりがちだ
では、会社の目が審査員に向くのはいつか。多くの場合、逸脱が起きた時だ。逸脱とは、審査を通っていない資材が使われたり、ルールを外れた表現が世に出たりすることをいう。もちろん、ふだんから審査部門と話をしている経営者もいる。ただ、そうでない会社のほうが多いのではないか。
逸脱の調べでは、まず作った部門が問われる。そして同じ強さで、時にそれ以上に、審査した側も問われる。「審査は何をしていたのか」。是正の報告書には審査記録の提出を求められ、過去のログ(=いつ誰が何を確認したかの記録)まで遡って調べられる。
私はこれを、誰かの意地悪だとは思っていない。見張り役は、持ち場に立っているから目立つ。事故より先に、見張り役が問われる。そういう場所に、私たちは立っている。作った部門が悪者だ、という意味でもない。
ただ、この立ち位置は審査員の心を静かにすり減らす。うまくいった日は透明になり、しくじった日だけ色がつく。長く続ければ、疲れがたまらないほうがおかしい。
03電気と、水道と、麻酔科医
電気のことを考えながら帰る人は、いない。水道の蛇口をひねるたびに感謝する人も、いない。あって当たり前のものは、止まった日に初めて「あったのだ」と気づかれる。地震で電気や水道が止まると、街は大騒ぎになる。前日まで、誰も話題にしなかったのに。
医療の世界にも、似た立場の人たちがいる。麻酔科医だ。手術の主役は執刀医で、患者の記憶に残るのも、多くの場合は執刀医のほうだ。麻酔科医は、麻酔をかけ、術中の呼吸や血圧を守り続け、何事もなく目覚めさせる。うまくいくほど、印象に残らない。
実際に、働く環境をめぐる問題で麻酔科医が一斉に辞め、手術ができなくなった病院があったと報じられたことがある。いちばん深刻だったのは、手術を待っていた患者さんへの影響だ。治療の機会が奪われた。その仕事が土台だったと分かった時には、もう遅かった。どの組織でも起こりうる話だろう。
04いなくなる前に
もし同じことが、製薬企業で起きたらどうなるか。あくまで仮の話だ。審査員が疲れ果てて、静かに去っていったら。あるいは去らないまでも、心をすり減らしていったら。
逸脱は、ある日突然増えるわけではない。審査の目が弱った分だけ、少しずつ、確実に増える。そして最初の外部指摘が来た日に、会社は気づく。あの静けさは、ひとりでにあったものではなかったのだと。困るのは会社だけではない。その資材を手に取る医療者と、その先にいる患者さんだ。
私がこの文章を書いたのは、待遇の話をしたいからではない。表彰してほしいわけでもない。ただ、経営者の方や資材を作る部門の方が、ふと自分に問うてくれたらと思うのだ。うちの「何事もない日常」は、誰が支えているのか。審査部門の人手は足りているか、最後に確かめたのはいつか。評価の物差しに、「防いだこと」は入っているか。すでにそうしている方には、確かめ直す機会になれば十分だ。
そして、もし廊下で審査員とすれ違うことがあったら、一言でいい。「いつも見てくれて、ありがとう」。その一言で、日ごろ水面の下に沈んでいた仕事が、一瞬だけ顔を出す。声かけが入口になって、人繰りや評価の見直しにまで話が届くなら、なお良い。それで審査員は、また明日も、透明な仕事に戻っていける。
この記事が、その一言のきっかけになるなら、書いた甲斐がある。
- 審査員の最高の成果は「何も起きない一日」。だが多くの会社の物差しは上に伸びる線しか測らず、「起きなかった事故」はどこにも記録されない。
- 会社の目が審査員に向くのは逸脱が起きた時に偏りがちだ。うまくいった日は透明になり、しくじった日だけ色がつく——この構造が審査員の心を静かにすり減らす。
- 電気・水道・麻酔科医のように、土台の仕事は止まって初めて気づかれる。いなくなる前に、人手と評価の物差しを確かめ、廊下で一言ねぎらう。それが入口になる。
- 厚生労働省. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 2018.(製薬企業の情報提供活動の行動基準。審査部門の役割の根拠)
- 厚生労働省. 販売情報提供活動監視事業 報告事例.(逸脱した販売活動が匿名で報告される国の仕組み)
- ジェフリー・ローズ. 予防医学のストラテジー. 医学書院, 1998.(「防いだ成果は見えない」という予防のパラドックスを示した古典)
- Susan Leigh Star & Anselm Strauss. Layers of Silence, Arenas of Voice: The Ecology of Visible and Invisible Work. Computer Supported Cooperative Work, 1999.(「見えない仕事」研究の代表的論文)
- フレデリック・ハーズバーグ. 仕事と人間性. 東洋経済新報社, 1968.(不満の解消と働きがいは別物であることを示した動機づけ・衛生理論)