審査コメントとして、間違ったことは何も言っていない。それなのに、その一言が対話を止めてしまうことがある。真剣に科学を極めようとする人ほど、仕事と自分が重なっている。だから「理解していない」は能力の指摘ではなく、人格への言葉として届く。その受信の仕組みを、体の側から順にたどってみたい。

01言ってしまった午後——正しい一言が部屋を静かにした

審査面談の小さな会議室だった。机の上には資材(=医薬品の広告や説明のための印刷物・スライド)の校正紙が広げてあり、赤字を入れた一文をはさんで、作成者と私は三十分近く押し問答をしていた。臨床試験の結果を要約したその一文は、科学的には正確だった。作成者は原著論文のページ番号まで示して、数字の一つひとつが本文と一致していることを説明した。それは事実だった。私も否定しなかった。

それでも私は直せと言った。理由も、規制の上では筋が通っていた。試験のいちばん良い結果だけを切り出して見出しに置けば、読み手は薬の効果を実際より大きく受け取る。データが正しくても、伝わり方が誇大なら広告としては誇大になる。これは私の意見ではなく、規制の考え方そのものだ。だから議論が三巡目に入ったとき、私は言った。「あなたは広告規制を理解していないんです」。

相手は反論をやめた。視線が校正紙に落ちて、部屋が静かになった。「分かりました。直します」。それだけだった。私はその瞬間、勝ったと感じた。議論が終わり、資材は正しい形になる。仕事としては前進だ。ところが同時に、別の感覚が胸の底に沈んでいた。何かを壊した、という感覚。相手が納得して黙ったのではなく、諦めて黙ったことが、表情で分かってしまったからだ。

正しいことを言ったのに、後味が悪い。この二つが同時に成り立つとき、人の中では認知的不協和(=自分の中のつじつまが合わない、あの居心地の悪さ)が起きる。私は帰りの廊下でそれを抱えたまま歩いた。以前この連載で、怒りが先に立つ脳の仕組みや、相手の立場を想像する回路の話を書いた。今回はその続きにあたる。正しさそのものが、人を黙らせる道具になってしまう瞬間の話だ。

先に結論めいたことを一つだけ言っておく。あの日の私の一言は、規制の説明としては何も間違っていなかった。間違っていたのは、言葉が刺さる場所の見立てだった。私は「知識の不足」を指摘したつもりで、実際には別の場所を突いていた。それが何だったのかを、この号で順にほどいていく。

02仕事と自分が重なっている人へ——「理解していない」はどこに刺さるか

数週間後、別の会議であの作成者の名前を聞いた。学会でポスター発表をこなし、社内の勉強会では論文の読み方を教えている人だという。エビデンス(=科学的根拠)に忠実な表現へのあのこだわりは、頑固さではなく、研究者としての背骨だったわけだ。それを知ったとき、あの日の静けさの意味が変わって見えた。

真剣に仕事をしている人ほど、仕事と自分が同一化(=仕事の評価が自分の価値の評価と重なること)している。「良い資材を作る私」と「私という人間」の境目が薄い。だから「あなたは規制を理解していない」という一言は、本人の耳では二段階に変換される。まず「この資材の規制知識が足りない」、次に「あなたという人が足りない」。私が送ったのは前者のつもりだったが、届いたのは後者だった可能性が高い。

精神医学では、自尊心(=自分には価値があるという基本の感覚)への脅威にさらされたとき、人が取る反応をいくつかの型で説明する。反論する、黙る、その場を避ける。どれも防衛反応(=心が傷を広げないために自動で取る守りの動き)であって、内容への同意や不同意とは別のものだ。あの人の「分かりました。直します」は、議論の決着ではなく、守りの姿勢だったのだろう。診断のような断定はできないし、するべきでもない。ただ、沈黙を同意と読むのは危ういという程度のことは言える。

交渉学者のダグラス・ストーンとシーラ・ヒーン(ハーバード大学でフィードバックの受け取り方を研究してきた二人)は、フィードバックには三つの種類が混ざっていると指摘した。評価(あなたは今どの位置か)、指導(どうすればもっと良くなるか)、承認(あなたの努力を見ている)。そして評価が混ざると、指導と承認は耳に入らなくなる、と二人は言う。私の一言は指導のつもりだったが、文の形は評価だった。「理解していない」は現在地の宣告であって、次の一歩を含んでいない。宣告だけを受け取った人は、まず自分を守る。学ぶのはその後だ。

心理学者のキャロル・ドゥエック(能力についての思い込みを研究してきたスタンフォード大学の研究者)の言葉を借りれば、人は「能力は固定されている」と感じさせられた瞬間に、挑戦をやめて防御に回る。「あなたは理解していない」は、聞きようによっては「あなたはそういう人だ」という固定の宣告になる。同じ内容でも「この基準は初見だと分かりにくいんです。私も最初は引っかかりました」と言えば、能力は動くものだという前提が言葉の中に残る。伝える中身は一緒でも、相手の中で開く扉が違う。あの日の私は、正しい荷物を、鍵のかかった扉に向かって投げていた。

03体が先に決める——交感神経が上がると、耳は閉じる

「規制を理解していない」。資材の一箇所を指して、私はそう告げた。そのあとの相手の変化をはっきり覚えている。相手はまず早口になった。反論が続けざまに出て、語尾が強くなる。ひとしきり言い終えると、今度はぷつりと黙った。肩のあたりがこわばって、机の上の資料を見つめたまま動かない。

当時の私は、それを態度の問題だと受け取っていた。素直に聞く気がないのだ、と。けれど今は違う見方をしている。あれは意思の話ではなく、体の反応だったのではないか。

人は自分の立場が脅かされたと感じた瞬間、体が身構える。交感神経(=体を「闘う」か「逃げる」かに備えさせる神経)が優位になり、心拍が上がり、呼吸が浅くなり、筋肉がかたくなる。獣に出くわしたときに走り出せるよう、体に備わっている仕組みだ。会議室に獣はいない。それでも「あなたは分かっていない」という一言は、体にとっては十分な脅威になりうる。

この状態で、相手の言い分を落ち着いて聞き取るのは難しい。血は腕や脚へ回され、頭は「どう言い返すか」でいっぱいになる。早口の反論も、そのあとの沈黙も、こわばった姿勢も、私にはひと続きの体の反応として見えてくる。神経生物学者のロバート・サポルスキーは、人間のストレス反応が、本来は短時間の危険をしのぐためのものなのに、言葉や立場をめぐる場面でも同じように立ち上がってしまうと書いている。会議室の一言が、草原で獣に会ったときと同じスイッチを押す。

体をふたたび落ち着かせるのは、副交感神経(=体を休息と安全の状態に戻す神経)の働きだ。心拍がゆるみ、肩の力が抜けて、はじめて相手の言葉が入ってくる。聞けるようになるのは、その後だ。だから対話には順番がある。安心が先で、話し合いは後だ。安全だと感じられる声のトーンや間の取り方が対話の土台になる、という考え方はポリヴェーガル理論(=自律神経と社会的な安心感を結びつけて説明する仮説)としてよく引かれる。ただし、これはまだ実証の途上にある仮説だ。その点は正直に添えておきたい。理屈の細部より、私が現場で確かめられるのはもっと単純なことだ。あの日の相手は、資料を見つめたまま動かなかった。あの姿勢のままの人に届く正論は、たぶん一つもない。

04危険検知が理性より速い——扁桃体と前頭前野の順番

あの日、私は不満を抱えて帰った。「こちらはきちんと根拠を示したのに、なぜあの人は私の説明を聞けなかったのか」。丁寧に順を追って話したつもりだった。それでも相手には届かなかった。

今なら、問いの立て方を変える。あの人は聞けなかったのではなく、聞ける状態ではなかった。この二つは似ているようで、まるで違う。前者は誠実さの欠如を責める言い方だ。後者は、体と脳の順番の問題として見る言い方になる。

脳の中では、危険の検知が言葉の吟味より先に走る。入ってきた刺激をいち早く「これは危ないか」と見分けるのが扁桃体(=危険をすばやく検知する部位)だ。ここが強く反応すると、落ち着いて言葉を選び、筋の通った判断を下す前頭前野(=理性的な判断や言葉選びを担う、額の裏あたりの部位)の働きが、いっとき抑えられる。速い警報が、遅い熟慮に先んじる。この現象は「扁桃体ハイジャック」と呼ばれることがあるが、これは心理学者ダニエル・ゴールマンによる分かりやすい言い回しで、脳の解剖そのものの用語ではない点は断っておきたい。

順番はこうだ。危険の検知が先。言葉の吟味は後。だから「規制を理解していない」と言われた相手が、まず反射的に身構え、それから理屈を組み立てようとするのは、脳のつくりからすれば自然な流れになる。不誠実だからではない。ただ、聞く準備が整う前に、私の正論が飛んできただけだ。

もう一つ、私が心にとめている研究がある。心理学者ナオミ・アイゼンバーガーらは、人が仲間はずれにされる場面を調べた。実験では、参加者に画面越しのボール投げゲームで、途中から自分だけパスが回ってこない状況をつくる。このとき脳の活動を見ると、前帯状皮質(=体の痛みの処理にも関わる部位)の一部が反応していた。つまり社会的に拒まれる経験は、身体の痛みと部分的に重なる場所で処理されていた。ここで気をつけたいのは、これは「同じ痛み」だと言い切る話ではなく、処理される領域に重なりがある、という所見(=研究で観察された結果)だという点だ。

この研究結果を、私は誇張せずに受け取りたい。「あなたは分かっていない」という言葉が、相手にとって軽いすり傷ではなく、痛みとして届いていたかもしれない。そう考えるだけで、正しさを言い渡す前に、一呼吸おく理由になる。

速い警報

扁桃体(=危険を検知する部位)が先に反応する。相手が身構えるのは反射であって、意思ではない。

遅い熟慮

前頭前野(=理性を担う部位)の働きは一時的に抑えられる。だから正論はその瞬間には届かない。

拒絶の痛み

仲間はずれの経験は、体の痛みと重なる領域で処理される。言葉は思うより深く刺さる。

05言った側の中でも何かが動く——道徳的な高揚と、小さな不安

面談を終えて自席へ戻る廊下で、私は妙に足取りが軽かった。規制の趣旨を守った。言うべきことを言った。胸のあたりに、仕事をやり遂げたときの熱が残っていた。ところがエレベーターを待つ数十秒のあいだに、別の感覚が割り込んでくる。あの人は、もう気軽に相談してこないかもしれない。熱と冷えが、同じ体の中に同居していた。

道徳心理学者のジョナサン・ハイトは、人の道徳判断はまず直感(=理屈より先に来る「正しい/間違っている」の即断)が動き、理屈は後から追いつくと述べた。つまり私が面談中に感じていた「これは指摘すべきだ」という確信は、規制の文章を読んで導いた結論である以前に、体の反応だった。そして、正しい側に立ったという感覚が快感に近い高揚を伴うことは、ハイトが描く道徳心理の見取り図とも符合する。私の帰り道の軽い足取りは、その高揚の残りだったのだと思う。

問題は、この快感が言葉選びを粗くすることだ。正しさを確信しているとき、人は「伝わるか」より「言い切れたか」を優先しやすい。私はあの日、「規制を理解していない」と言った。「この箇所は規制のこの趣旨に触れる可能性がある」と言うこともできたのに、より短く、より断定的な方を選んだ。正しさの高揚は、相手の顔色を読む余裕を削る。前の章で見たとおり、言われた側の体は防御態勢に入る。だが振り返れば、言った側の私の交感神経も、あのとき確実に上がっていたはずだ。声は少し大きく、話す速度は少し速くなっていた。対立の場では、両方の体が興奮している。冷静なのは片方だけ、という状況はめったにない。

だから帰り道の「小さな不安」は、後悔というより、興奮が引いたあとに戻ってきた平常の感覚だったのだろう。関係が壊れたかもしれない、という認識は面談中もどこかにあった。ただ、高揚がそれを覆い隠していた。正しさを口にした側も、無傷ではない。快感と引き換えに、何かを支払っている。その日の私は、支払った額をまだ知らなかった。

06繰り返されたら、どうなるか——沈黙の先にある学習性無力感

数か月後、気づいたことがある。あの作成者からの相談が、目に見えて減っていた。上がってくる資材は、どれも似たような、当たり障りのない表現ばかりになった。審査は速く終わる。差し戻しもない。一見、良いことのように見える。だが昼休みにふと考えた。この静けさは、対話が成立した結果なのか。それとも、対話をあきらめた結果なのか。

心理学者のマーティン・セリグマンは、学習性無力感(=何をしても結果は変わらないと学習し、試みること自体をやめてしまう状態)という現象を実験で示した。逃げられない状況に繰り返し置かれると、あとで逃げ道が用意されても、もう逃げようとしなくなる。職場に置き換えれば、こうなる。工夫した表現を出すたびに否定される。理由を説明しても結論は変わらない。それが数回続けば、人は学ぶ。「挑戦しても無駄だ」と。そして最も安全な行動、つまり絶対に指摘されない、無難な資材だけを出すという選択に落ち着く。

これは怠けではない。合理的な適応だ。そしてクリスティーナ・マスラークらの燃え尽き(バーンアウト=仕事への情熱が消耗し、心が擦り切れた状態)の研究は、その先を示している。マスラークは燃え尽きを「情緒的消耗感」「脱人格化(=相手をただの手続きの対象として扱うようになること)」「達成感の低下」の三つの要素で説明した。繰り返される否定は、後の二つへの入り口になりうる。自分の工夫が実らない経験が積み重なれば達成感は目減りし、審査部門は「話の通じる相手」から「通過すべき関門」に変わる。念のため書き添えるが、これは誰かを診断する話ではない。個人の弱さの話でもなく、否定が一方向に流れ続ける場に生まれる、職場の力学の話だ。

審査する側にとって、静かな相手は楽だ。仕事は滞りなく流れる。だがその静けさの下で、工夫は提出前に削られているのかもしれない。本当は世に出るべきだった表現、患者に届くはずだった分かりやすさが、作成者の頭の中で消えていく。私があの日の一言で買ったのは、従順さではなく沈黙だった。そして沈黙は、合意とは別のものだ。

07正しさは変えない、届け方を変える——伝わる神経状態をつくる責任

あの一件から数週間後、別の資材で似た場面が巡ってきた。開発部門のベテラン研究者が持ち込んだ説明資材に、承認された効能・効果(=国が認めた「この薬はここに効く」という範囲)を一歩はみ出す表現があった。指摘の中身は前回と同じ種類だ。違ったのは、私の切り出し方だけだった。

私は結論から入るのをやめた。まず、その資材が拾い上げている薬理データ(=薬が体の中でどう働くかを示す実験結果)の読み込みの深さを、こちらの言葉で言い直して返した。「このグラフの選び方は、作用の持続を一番伝えたいからですね」。相手が小さくうなずく。呼吸が浅くなっていない。それを確かめてから、私は続けた。「その伝えたいことと、承認範囲の線引きがぶつかる箇所が一つあります。ここを一緒に解きたいのですが」。指摘は一切曲げていない。順番を変えただけだった。

これは処世術ではなく、前の章で見た神経科学の応用だと私は思っている。ポージェスのポリヴェーガル理論(=人は「安全だ」と体が感じて初めて、聴く・考えるための神経回路が開くという考え方)が示すのは、聴く回路が開くより先に安心が来る、という順番だ。扁桃体(=脳の警報装置)が鳴っている相手に正論を重ねても、言葉は防御の壁に当たって落ちるだけだ。先に安全の合図、つまり相手の意図を正確に言葉にして認めることを送るのは、機嫌取りではない。相手の体が聴ける状態を用意することまでが、伝える側の仕事のうちだ、というだけの話である。

vol-25で、リスクの共通理解は文書ではなく対話の中で育つ、という話を書いた。今回のことはその続きだと思う。規制の懸念が「審査担当者の持ち物」である限り、相手にとってそれは障害物でしかない。だが「二人の間に置かれた問題」に変わった瞬間、相手の側からも解き方の案が出てくる。あの日の研究者は、私が挙げた懸念に対して、私より適切な代替表現を自分で見つけてきた。防御に回っていた脳が、問題解決に戻ってきた証拠だと私は受け取った。

正しさが人を黙らせた日、私は「規制を理解していない」と告げて、正しくて、そして何も届けられなかった。良心とは、正しいことを言った時点で仕事を終わりにしない態度のことだと、今は思う。相手の中に届いて、資材が実際に直り、その先の医療者と患者に正確な情報が渡る。そこまでの経路全体に責任を持つこと。言う正しさと、届く正しさ。両方そろって初めて、審査という仕事は完結する。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 仕事と自分が重なっている人にとって「理解していない」は知識の指摘でなく人格への言葉として届く。評価が混ざった瞬間、指導と承認は耳に入らなくなる。
  2. 脳では危険の検知(扁桃体)が言葉の吟味(前頭前野)より先に走る。相手が身構えるのは反射であり、防御態勢の体にはどんな正論も届かない。安心が先、話し合いは後。
  3. 否定が繰り返されると人は「挑戦しても無駄だ」と学習し、無難な資材だけが上がってくる。静かな審査は成功の証ではない。届くところまでが伝える側の仕事だ。
出典·参考文献
  1. レオン・フェスティンガー. 認知的不協和の理論. 誠信書房, 1965.(つじつまの合わなさの古典)
  2. ダグラス・ストーン, シーラ・ヒーン. ハーバード あなたを成長させるフィードバックの授業. 花伝社, 2016.(指摘が人格に刺さる仕組み)
  3. キャロル・S・ドゥエック. マインドセット「やればできる!」の研究. 草思社, 2016.(能力への否定の受け止め方)
  4. ダニエル・ゴールマン. EQ こころの知能指数. 講談社, 1996.(「扁桃体ハイジャック」という通俗表現の出典)
  5. マシュー・D・リーバーマン. 21世紀の脳科学 人生を豊かにする3つの「脳力」. 講談社, 2015.(社会的痛みと前帯状皮質の研究の解説)
  6. ステファン・W・ポージェス. ポリヴェーガル理論入門. 春秋社, 2018.(安全の感覚と自律神経をめぐる仮説)
  7. ロバート・M・サポルスキー. なぜシマウマは胃潰瘍にならないか. シュプリンガー・フェアラーク東京, 1998.(ストレス反応の生理学)
  8. マーティン・セリグマン. オプティミストはなぜ成功するか. パンローリング, 2013.(学習性無力感の提唱者による解説)
  9. クリスティーナ・マスラーク, マイケル・P・ライター. 燃え尽き症候群の真実. トッパン, 1998.(燃え尽きは個人でなく職場の問題という知見)
  10. ジョナサン・ハイト. 社会はなぜ左と右にわかれるのか. 紀伊國屋書店, 2014.(道徳的正しさがもたらす高揚の心理学)