01「直します」とだけ言った

若い同僚の審査コメントを読んでいた。新製品の説明資材への指摘だった。たとえば数字の見せ方だ。主要な結果を伝える見出しに「イベント発生率を30%減らした」とあった。数字は正しい。5%が3.5%になった、その相対の減り幅(=もとの数字に対して何%減ったか)だ。ただ、1.5ポイントという絶対差(=実際の発生率が何ポイント下がったか)は、脚注に小さく添えられていた。同僚はそこを突いた。「『30%減らした』は相対の減り幅である旨を見出し内で明示、そのうえで絶対差1.5ポイントを同格で併記。作成要領の該当箇所はここ、過去の指摘事例はこれ」。引用文献の選び方、安全性情報の置き場所への指摘も同じ調子だった。ここでは数字の話だけ例に挙げるが、どれも正しい。私が書くより丁寧なくらいだ。

ところが、資材を作った担当者との打ち合わせで、その正しさは相手に届かなかった。担当者は一度は押し返した。「ここは製品戦略上、外せない箇所でして」。同僚は根拠を重ねて応じた。正しい答えだった。担当者はそれ以上言い返さず、短く「直します」とだけ言った。会議室を出るとき、その顔に納得の色はなかった。

彼にとって、黙って直すのは、発売日を守るいちばん確かな道だったのかもしれない。押し返し続ければ審査は長引く。次の資材でも分が悪くなる──実際はそうでなくても、彼がそう感じたとしても無理はない。沈黙はあきらめであると同時に、理にかなった選択でもある。だからこそ、審査する側は沈黙を「決着」と読み違える。

私はこの光景に覚えがある。何年も前、私自身が同じことをしていた。以前の回で書いた、根拠を示さず結論だけ告げた私のコメントも、まさにそれだった。指摘は通る。資材は直る。相手の中には何も残らない。

02正しさは減らない、でも届かない

正しさというのは不思議なもので、いくら使っても減らない。基準は変わらないし、データも変わらない。だから審査員は、同じ正しさを何度でも繰り出せる。

でも、届くかどうかは別の話だ。

審査コメント欄には、こんな一行がよく並ぶ。「作成要領第◯項により不可」。それだけだ。書いた本人には十分でも、受け取る側には壁の張り紙と変わらない。もし一行足すならこうだろう。「このグラフを選んだ理由を教えてください。伝えたい差が分かれば、別の見せ方を一緒に探せます」。前者は判決で、後者は問いだ。私は長いこと、判決ばかり書いてきた。

心理学に「視点取得」(=相手の立場から物事を見ようとする働き)という言葉がある。心理学者のエヤルとエプリーらが2018年に発表した25の実験は、この働きへの信頼を揺さぶった。相手の好みや感情を推測させる実験では、相手の視点を想像するだけでは推測の精度はほとんど上がらなかった。上がったのは自信だけだった。精度が上がったのは、想像したときではなく、実際に相手に聞いたときだ。

これを審査室に置き換えると、耳が痛い。私たちは資材作成者の事情を想像する。MRが説明会でこの図をどう使うつもりか、競合の資材と並べて何を言いたいのか、と。その想像の向こうには、作成者自身が積んできた経験もあるはずだ。あの30%という見出しも、「効果の大きさが一目で伝わる、学会発表でも主要な結果は相対で語られている」という経験から来ていたのかもしれない。作成者にも針(=進むべき方角を指す、自分なりの判断の感覚)があるのだ。製品と顧客を知り抜いた、審査員とは別の向きの針が。

なのに私たちは、想像の上に正しい指摘を積む。聞いてはいない。なぜこの構成にしたのか。何を伝えたくてこのグラフを選んだのか。聞かないまま投げられる正しさは、どれほど正しくても一方通行だ。修正版が回り、承認され、それきり誰もあの資材の話をしない。修正履歴だけが積み上がって、何も育たない。

03壊すのは針ではなく、羅針盤の使い方

審査員は誰でも、心の中に羅針盤(=進む方角を教える道具)を持っている。何が正しくて何が危ういか、経験と学びで磨いてきた針だ。私はその針を大事にしたい。資材を作り、育てているのはまず作成者たちだが、資材を危うさから守る最後の関門に、針のない審査員は立てない。

でも時々、思う。この羅針盤を一度壊して、作り直さなければならない、と。まず私自身が、だ。

壊すといっても、針が指す方角を変えるのではない。壊すのは、羅針盤の使い方のほうだ。「方角を示せば相手は歩き出すはずだ」という思い込み。羅針盤を一人で覗き込む道具だと思ってきたこと。哲学者マルティン・ブーバーの言葉を借りれば、コメント欄だけのやり取りは「われ─それ」(=相手を処理の対象として扱う関係)にとどまる。そこに「われ─なんじ」(=一人の人として向き合う関係)はない。以前、別の担当者が差し戻しのあとで「あれはルール違反だったんですか、それとも個人のお考えですか」と聞きに来たことがある。あの人が求めていたのは、たぶん後者の関係だった。

二人で読むというのは、大げさなことではない。差し戻しボタンを押す前に、10分だけ電話をする。話した中身は、あとでシステムのコメント欄に残す。口約束にしないためだ。指摘が10件あるなら、コメント欄に全部書き込む前に、最初の1件だけ打ち合わせで話す。1件目で相手の設計の考えが分かれば、残り9件のうち半分は指摘の書き方が変わる。ときには指摘そのものが消える。逆に、電話の後のほうが直しは早い。私の経験では、黙って差し戻した資材ほど、二往復目、三往復目が長引く。

羅針盤は方角を教えてくれる。でも、道は教えてくれない。道は、地図を広げて、相手と一緒に歩くものだ。一人用の道具を、二人で読む道具に作り替える。壊して作り直すというのは、そういうことなのだと思う。

04二つの針のずれから始める

では、互いに読み合える正しさの羅針盤とは、どんなものか。正直に言えば、まだ答えを持っていない。ただ、手がかりは拾った。

一つ目は、書く前に聞くこと。聞く相手は、その資材を作った本人だ。コメント欄に向かう前に、机に行くか、電話をかけて、「このグラフを選んだ理由を教えてください」と聞く。エヤルらの実験には続きがある。想像は精度を上げず、自信だけを膨らませる。つまり、聞かずに書いた指摘ほど、自信満々になる。先週も私は、聞かずに書いた。書き終えたコメントの確信の強さこそ、聞いていない証拠かもしれない。針が振れたら、書く前に、作成者に一度聞く。想像より確かな入り口は、質問しかなさそうだ。

二つ目は、直した後にもう一度聞くこと。相手が黙って直したときのことは、第26回で書いた。静かな審査は成功の証ではない。納得して直したのか、時間がないから直したのか。顔色を読むのは結局、想像の続きでしかない。

そして三つ目。第24回で書いた「ここまではルール、ここからは私の考え」という立ち位置を明かすのは、入り口にすぎなかった。明かしてもなお、私の針とあなたの針はずれる。たとえば副作用の注意書きだ。審査員の私は、太字にして枠で囲み、本文と同じ大きさにしたい。見落としが怖いからだ。作成者はこう考える。注意書きばかり目立つ紙面は、読み通してもらえない。読まれない資材は、正しくても意味がない、と。どちらも患者のほうを向いている。向いたまま、ずれている。そのずれを消すべき誤差と見るか、話すべき本題と見るか。私は後者だと思うようになった。二つの針のずれこそが、資材について本当に話すべきことなのだ。もっとも、針を出すかどうかは相手の自由だ。出せと迫れば、それはまた一方通行に戻る。

若い同僚の正しさは、本物だ。だからこそ、いつか、相手と並んで歩ける正しさに変わってほしい。それは同僚への注文である前に、二十年この仕事をして、まだ一人で羅針盤を覗き込む日がある私への注文だ。あの「直します」とだけ言った担当者に、私はまだ「なぜ」を聞いていない。あの30%という見出しを、彼がどんなつもりで立てたのか。10分の電話で済む話だ。まずそこからだろう。

羅針盤を壊して、作り直す。何度でも。二人で確かめ合える針になるまで。その作り直しに終わりがあるのかどうか、私はまだ知らない。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 正しさは使っても減らないが、届くかどうかは別の話。聞かないまま投げられる正しさは、どれほど正しくても一方通行で、相手の沈黙を「決着」と読み違えさせる。
  2. 視点取得の実験(エヤル、エプリーら 2018)が示すのは、相手の立場を「想像」しても推測の精度は上がらず、自信だけが上がること。精度が上がるのは、実際に相手に聞いたときだけ。
  3. 壊すのは針(基準)ではなく羅針盤の使い方。一人で覗き込む道具を、二人で読む道具に作り替える。書く前に一度聞く、直した後にもう一度聞く、二つの針のずれを本題として話す。
出典·参考文献
  1. Tal Eyal, Mary Steffel & Nicholas Epley. Perspective Mistaking: Accurately Understanding the Mind of Another Requires Getting Perspective, Not Taking Perspective. Journal of Personality and Social Psychology, 2018.(視点の「想像」は精度を上げず自信だけを上げることを25の実験で示した論文)
  2. マルティン・ブーバー. 我と汝・対話. 岩波文庫, 1979.(「われ─それ」と「われ─なんじ」という二つの関係を示した対話の哲学の原典)
  3. 厚生労働省. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 2018.(審査コメントの根拠となる国の行動基準)
  4. 日本製薬工業協会. 医療用医薬品製品情報概要等に関する作成要領.(引用文献の選び方やグラフの扱いを定める業界の自主基準)