「載せてはいけないと、どこに書いてあるんですか」。論文の別刷りを前に、私の手が止まった。ルールに書いていないことは、許されていることなのか。査読(=専門家どうしの審査)が保証するものと、しないもの。「自らを厳しく律し」という言葉の手前にある、あの小さな引っかかりの話。
01別刷り一枚の前で、手が止まる
講演会スライドの審査の机に、一枚の別刷り(=学術誌に載った論文を、その部分だけ印刷したもの)が置かれた。有名な国際誌の論文である。担当者は言った。「これはpeer-reviewed(=専門家どうしが内容を審査して通した)論文です。載せられない理由が、何かありますか」。口調に棘はない。むしろ誠実な問いだった。論文の質は高い。統計も妥当に見える。それなのに、私の赤ペンは紙の上で止まったまま動かない。
理由を探して、手元のルールをめくる。薬機法66条(=医薬品の効能などについて、虚偽・誇大な広告を禁じるルール)。販売情報提供活動ガイドライン(=2018年に厚生労働省が出した、製薬企業が医療関係者へ情報を提供するときの行動基準)。どちらを読み返しても、「論文なら載せてはならない」とは、どこにも書いていない。禁止の明文がないのに、載せてよいと言い切れない。この宙ぶらりんが、審査の仕事ではいちばん苦しい。
「書いていないなら、ダメと言う根拠はないでしょう」。担当者の理屈は筋が通っている。私も、根拠を示せない指摘はしたくない。ただ、経験の浅い頃の自分なら「規定にないので可」とハンコを押していたかもしれない場面で、いまの私は押せない。この引っかかりは何なのか。単なる保身か、それとも審査という仕事の芯にある何かなのか。
この号では、その引っかかりの正体を探してみたい。先に結論を少しだけ言えば、ルールが沈黙している場所は「白」ではなく、「自分の頭で判断せよ」と指定された領域なのだと思う。だがそこへ行き着く前に、まず、ルールが実際に何を書いているのかを正確に読み直す必要がある。
02ルールは何を禁じ、何を禁じていないか
審査の合間に、ルールを原文で読み直した。66条第1項はこう定める。「何人も、医薬品等の名称、製造方法、効能、効果又は性能に関して、明示的であると暗示的であるとを問わず、虚偽又は誇大な記事を広告し、記述し、又は流布してはならない」。注意したいのは「暗示的であるとを問わず」の一句だ。書いてある一文一文が正しくても、並べ方や見せ方によって実際以上の期待を抱かせれば、それは誇大にあたりうる。嘘をつくな、ではない。誤解させるな、である。
ここで混同しやすいルールがもう一つある。68条(=承認を受けていない医薬品の広告を禁じるルール)だ。整理しておくと——
| ルール | 禁じていること | 典型場面 |
|---|---|---|
| 66条 | 虚偽・誇大な広告(暗示的なものも含む) | 承認済みの薬を、実際より良く見せる |
| 68条 | 未承認の医薬品・未承認の効能の広告 | 承認されていない使い方を宣伝する |
論文の別刷りが問題になるのは、多くの場合この両方の入り口に立っているからだ。承認範囲内の内容でも、見せ方しだいで66条の「暗示的な誇大」に触れる。承認外の用法を含む論文なら、68条の影が差す。そして販売情報提供活動ガイドラインの適用範囲には、講演会や口頭の説明、スライドも含まれる。そのうえで、提供する情報は「科学的・客観的な根拠に基づき正確なもの」であること、承認された範囲内の使用が基本であることを求めている。ただし、「論文はこう扱え」という細目を一つずつ列挙してはいない。
つまりルールは、原則を太い線で引き、個別の場面の判断を現場に委ねている。ここで「書いていない=白」と読むか、「書いていない=自分で判断する領域」と読むかで、審査の姿は分かれる。前者の読み方だと、ルールの隙間はすべて通り道になる。後者の読み方だと、隙間は判断の持ち場になる。66条が「暗示的」という言葉をわざわざ置いたのは、ルールの文言をすり抜ける見せ方こそ、規制がいちばん捕まえたい相手だからだ。だとすれば、明文がない場所で立ち止まる私の赤ペンは、ルールの外にいるのではなく、ルールが指し示した持ち場に立っている。そう考えると、あの引っかかりに少しだけ輪郭が見えてくる。
03査読は何を保証しているのか
もう十年以上前になるが、大学に残った知人に「査読って、結局なにを見ているの」と聞いたことがある。居酒屋の雑談だった。彼の答えは拍子抜けするほど地味だった。「方法がまともか、データからその結論を言っていいか。それだけだよ」。すごい発見かどうかを判定しているわけでも、ましてや間違いがないと保証しているわけでもない、と彼は付け加えた。私はその頃まだ、査読誌(=専門家の審査を通った学術雑誌)に載った論文は「お墨付きの真実」だと、どこかで思い込んでいた。
査読(peer review。=同じ分野の研究者が発表前に原稿を点検する仕組み)が確かめるのは、学術の作法に沿っているかどうかだ。研究の設計は問いに合っているか。統計の使い方に無理はないか。結論はデータの範囲を踏み越えていないか。逆に言えば、審査の対象はそこまでで終わる。「この結果を営業の資材に使ってよいか」は、査読者が一度も考えていない問いである。考える義務もない。学術誌の審査基準に、販売促進での利用可否という項目は存在しないからだ。
私は空港の保安検査を思い浮かべる。検査を通過すれば飛行機には乗れる。しかし通過したからといって、目的地で何をしてもよいわけではない。保安検査は「機内に危険物を持ち込まない」ことだけを確かめる手続きであって、旅先での振る舞いまで請け合ってはくれない。査読も同じだ。学術の世界という「機内」に乗るための検査ではあるが、講演会スライドや面談資料という「目的地」での使い方は、まったく別の審査に委ねられている。その別の審査こそ、私たちの仕事だ。
しかも、いったん通った検査が、後から取り消されることもある。査読誌の論文にも撤回(=掲載後に取り消されること)はあるし、追試(=別の研究者が同じ方法で確かめ直すこと)で再現されない結果も、めずらしくない。誇張するつもりはない。大半の論文は誠実な仕事だ。ただ、「査読を通った」という事実は、思われているよりずっと限定的なことしか意味しない。それを知ってから、私は資材の余白に書かれた「査読誌掲載」という添え書きを、許可証としてではなく、出発点として読むようになった。
04論文としては正しく、広告としては誇大
審査の机の上で、実際によく出会う場面を三つ挙げてみる。どれも元の論文に嘘はない。それでも私は差し戻しを書くことになる。
有利な図だけの切り出し
一本の論文から、自社品に都合のよい図表だけを抜き出したスライド。論文全体では効果が限定的だと述べられているのに、その留保が消えている。図そのものは元の論文(原著)のままでも、前後の説明を切り離した瞬間に印象が変わる。
サブグループ解析の強調
全体では差がなかった試験の、一部の患者だけ取り出した分析(サブグループ解析)で光った部分を大きく載せる。論文では「探索的」と明記されている結果が、スライドでは主役に昇格している。
承認外用量のデータ
海外試験の高用量データや、国内の承認を超える使い方の成績。学術報告としては価値があるが、販売の場で示せば、承認されていない使用(適応外使用)を勧める形になりうる。
二つ目のサブグループ解析について、少しだけ立ち止まりたい。統計の世界では、サブグループ解析は「探索的」(=次の研究の仮説を探すための分析)と位置づけられる。「検証的」(=あらかじめ計画して効果を確かめる分析)ではない。患者をあれこれ切り分ければ、偶然どこかの群で差が出ることは避けられないからだ。論文の著者はそれを承知で、慎重な言葉づかいで報告している。つまり論文の中では正当な記述なのだ。問題は、その慎重さごと運ばれてこないことにある。
ここに、薬機法66条(=医薬品の誇大広告を禁じるルール)の言う「暗示的」という言葉の重みがある。明示的に嘘を書かなくても、示し方によって実際より優れている印象を与えれば、それは誇大にあたりうる。承認外用量のデータも同じ構図で、販売情報提供活動ガイドライン(=製薬企業の情報提供のルールを定めた厚労省の指針)は、承認された範囲内の情報提供を基本に据えている。学会場で発表される分には学術活動でも、企業主催の講演会スライドに載れば販売の文脈に入る。
同じ図でも、置かれる場所によって規制上の意味が変わる。これが、この仕事を長く続けるうちに染み込んだ、いちばんの実感かもしれない。私が審査で見ているのは、図の正しさそのものではない。原著では図の隣にあった、ただし書き(留保)や条件が、スライドの上でも隣にいてくれるか。文脈をいっしょに連れてきているか。論文としての正しさと、広告としての適切さ。審査の机の上では、この二つを別々の問いとして確かめるしかない。
05「自らを厳しく律し」の読み方
審査の手が止まった日の夜、私は販売情報提供活動ガイドラインを読み返した。第4章に、あの言葉がある。定められていない事柄についても、「禁じられていない」と誤解することなく、企業に求められる本来の責務を判断の基軸として、「自らを厳しく律した上で」活動すること、と書かれている。何度も目にしてきた一節だが、その晩は少し違って見えた。この言葉は、飾りではない。ルールの構造の中で、はっきりした持ち場を与えられている。ルールを書いた側が、ルールに書いていない場所の歩き方まで示していたのだ。
医薬品の情報提供をめぐる決まりは、おおむね三層でできている。いちばん外側に法令(=薬機法などの国の法律)。その内側に行政のガイドライン(=法律の運用を示す通知類)。そしていちばん内側に、業界の自主基準と各社の社内規程。外側の二層は「してはならないこと」を明文で列挙する。だが、列挙はどこまで行っても列挙である。世の中に現れる資材の形は無限にあり、ルールが先回りしてすべてを書き尽くすことはできない。
ここで大事なのは、書き尽くせないことが法令の欠陥ではない、という点だ。むしろ設計の前提である。明文の網の目には最初から隙間があり、その隙間は「各社と各担当者が自分で線を引く場所」として残されている。自主規範(=業界や会社が自分で自分に課すルール)が存在する理由はここにある。他律(=外から課される規制)が届かない領域を、自律が埋める。二つは対立するものではなく、一枚の網を分担して編んでいる。
| 層 | 誰が定めるか | 働く場所 |
|---|---|---|
| 法令 | 国 | 明文で禁じられた行為 |
| ガイドライン | 行政 | 法令の解釈と運用の目安 |
| 自主基準・社内規程 | 業界・各社・各人 | 明文が届かない隙間。ここで「自ら律する」 |
だから「自らを厳しく律し」は、精神訓話ではなく役割分担の宣言だと私は読む。「規則に書いていないから載せてよい」という理屈は、この構造の中では成り立たない。書いていない領域こそ、自分たちが判断を引き受けると約束した領域だからだ。その判断のよりどころは、ルールではなく良心(=患者に届く情報として恥ずかしくないか、と問う自分の内側の声)である。明文がないことは「何をしてもよい」という許可証ではなく、宿題の始まりなのだと、あの一句は静かに言っている。
06引っかかりは、良心の声である
冒頭の場面に戻る。あの論文データを前に手が止まったとき、私の頭の中では二つの声がぶつかっていた。「これは規則違反ではない」。「でも、患者に届く情報として公正か」。どちらも私の声である。つじつまが合わない。この居心地の悪さに、心理学は名前を付けている。認知的不協和(=自分の中で二つの考えが食い違うときに生じる、あの落ち着かない感覚)。社会心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した概念だ。
フェスティンガーが指摘したのは、人はこの不快さを放置できず、どうにかして解消しようとする、という点だった。危ういのはその解消の仕方である。いちばん手軽な方法は、片方の声を黙らせることだ。「規則違反ではないのだから問題ない」と唱えれば、不協和は消える。手も再び動く。だがそれは、判断をしたのではない。判断から降りただけである。
私は逆に考えるようになった。あの引っかかりは、消すべきノイズではない。頭が理屈を組み立てるより先に、良心が何かに気づいている合図だ。倫理という言葉を普段まったく意識しない人でも、「これ、載せていいのかな」という小声を聞いた経験はあるはずだ。その小声は、資格も研修も要らない、誰にでも最初から備わっている感覚である。
- 引っかかったら、すぐに打ち消さない。「気のせいだ」と流さず、何に引っかかったのかを一文にしてみる。
- 言葉にできたら、机に載せる。同僚に「ここが気になるのだが」と見せる。この瞬間、個人の直感は組織の検討事項に変わる。
- 議論の結果「載せてよい」となっても、それは負けではない。理由を言葉にして通過した判断は、黙って通した判断とは別物だ。
自律の最初の動作は、立派な倫理綱領を暗唱することではない。自分の中の小さな引っかかりを、一度だけ真面目に扱うこと。前節で見たとおり、明文の外側は私たちが線を引く場所として残されている。その線引きの出発点は、いつもあの半秒の違和感だった。
07線は、自分で引くから線になる
審査を終えて席に戻ると、外はもう暗くなりかけていた。あの別刷りについては結局、サブグループ解析の図だけを載せる形をやめることになった。試験全体の主要な結果とセットにして、承認された効能・効果の範囲に記載を揃える。そういう落としどころになった。担当者は最後まで少し不満そうだった。「論文に載っているのに」という顔をしていた。私にも、その気持ちは分かる。
数日後、その担当者が私の席まで来た。「言われてみれば、あの図だけだと言い過ぎでした」。それだけ言って戻っていった。短いやりとりだったが、私は少しうれしかった。彼が納得したからではない。彼が自分で考え直したからだ。私が線を引いたのではなく、彼の中に線が引かれた。その違いは、次の資材で必ず出てくる。
今回の判断を振り返ると、頼りにしたものは三つあった。薬機法66条、販売情報提供活動ガイドライン、そして業界の自主規範にある「自らを厳しく律し」という一文。三つは別々の層にある。法律は最低限の禁止を示し、ガイドラインはその運用を示し、自主規範は「書かれていないところ」の心構えを示す。だが実際の審査で目の前にあるのは、一枚の別刷りと一人の担当者だ。三つの層のどこにも「この図を載せてよいか」とは書いていない。書いていない部分を埋めるのは、結局、審査する人間の判断だった。
心理学や社会学では、外から与えられた規範がやがて自分の判断基準になることを「内在化」と呼ぶらしい。ただ、現場の言葉で言えばもっと単純だ。誰かに引かれた線は、守るものだ。守っているあいだ、線はずっと他人のもののままだ。だが一度でも、ルールに書いていないことを自分で考えて、迷って、どこかに線を引いた経験があると、次の判断は少し楽になる。「前にあのとき、こう考えた」という足場が自分の中にできるからだ。あの担当者は今回、その足場を一つ手に入れた。私も若いころ、先輩に線を引かれ、不満に思い、あとになって「言われてみれば」と先輩の席まで言いに行ったことがある。
線は、自分で引くから線になる。引かされた線は、監視がなくなれば消える。自分で引いた線は、消す理由が自分の中にないかぎり、残る。「自らを厳しく律し」という言葉の手前にあるのは、たぶんこういう、地味で個人的な経験の積み重ねだ。帰り支度をしながら、次にあの担当者が持ってくる資材のことを、少しだけ楽しみに思った。
- 査読が確かめるのは学術の作法まで。「販売資材に使ってよいか」は査読の対象外で、その審査は別の問いとして自分たちが引き受ける。
- 一つ一つの記述が正しくても、切り出し方や見せ方で「暗示的な誇大」になりうる(薬機法66条)。図は、原著にあった留保や条件という文脈ごと運ぶ。
- 明文がない領域は「白」ではなく、自分で線を引く持ち場。「自らを厳しく律し」は役割分担の宣言であり、その出発点は自分の中の小さな引っかかりを一度真面目に扱うこと。
- レオン・フェスティンガー. 認知的不協和の理論. 誠信書房, 1965.(つじつまの合わなさが人を動かすことを示した古典)
- 厚生労働省. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 2018.(講演会・スライドも対象に含めた国のルール)
- 日本製薬工業協会. 医療用医薬品プロモーションコード. 製薬協.(業界の自主規範)
- マイケル・サンデル. これからの「正義」の話をしよう. 早川書房, 2011.(ルールの外側で判断する練習の入門書)
- ダニエル・カーネマン. ファスト&スロー. 早川書房, 2014.(直感の引っかかりと熟慮の関係を描く)
- アルバート・バンデューラ. 激動社会の中の自己効力. 金子書房, 1997.(人が倫理の判断を自分に許したり免除したりする仕組み)
- 津谷喜一郎ほか編. 臨床研究の道標. 認定NPO法人健康医療評価研究機構, 2019.(サブグループ解析など臨床データの読み方の実務書)
- 中山健夫. 健康・医療の情報を読み解く 第2版. 丸善出版, 2014.(一つの論文と全体の証拠の距離感を学べる)
- 小林傳司. トランス・サイエンスの時代. NTT出版, 2007.(科学が答えを出せても判断は人に残ることを論じる)