資材審査で「書いていないですよね?」と問われるたび、原理原則を説いても空振りする。専門家と初心者では知識の構造そのものが違うと知ったとき、伝わらない責任の半分がこちらにあると気づいた。第22回は、届かない相手にどう橋を架けるかを考える。

01「どこに書いてありますか」という問い

差し戻した資材の説明をしていたときのことだ。作成者は作成要領(=製薬協がまとめた、資材づくりのルールブック)の目次を開き、こう尋ねてきた。「この表現を禁じる条文は、どこにありますか」。声に棘はない。むしろ真面目な人だった。付箋だらけの要領を持ち歩き、禁止事項の一覧をほとんど暗記している。それでも、私が指摘した箇所については「該当する条文が見つからない」と言う。

私は序章の「基本的考え方」のページを指さした。相手はうなずきながら、しかし手は後ろの具体的な禁止リストのページをめくり続ける。私が原理の章を見せ、相手が個別条文の章を探す。会話は丁寧なのに、視線が交わらない。あの平行線は何だったのか。この文章ではそれを考えたい。

手がかりはルールの側にもある。まず薬機法(=医薬品医療機器等法。医薬品の広告を規制する法律)の運用基準である適正広告基準。次に、広告に当たるかを判定する「広告の三要件」(=顧客誘引の意図・商品名の明示・一般人が認知できる状態)。さらに販売情報提供活動ガイドライン(=厚労省が定めた、製薬企業の情報提供の行動規範)と、製薬協の作成要領。これらはいずれも、冒頭に「基本的考え方」や「目的」の章を置いている。個別の禁止事項は、その後にくる。つまり書き手たちは、禁止リストの前に原理を読ませたかった。順番そのものが設計なのだ。

ところが現場では、この順番が逆転する。忙しい作成者ほど、序章を飛ばして「使ってよい語・いけない語」の一覧に直行する。そのほうが速いし、答えが白黒はっきりするからだ。悪意ではない。だが、条文の外にある原理が読めないと、リストにない新しい表現が出てくるたびに立ち往生する。私と作成者の平行線は、性格の違いでも熱意の差でもなく、もっと構造的な何かの違いに見えた。それが何かは、次の節で心理学の実験を借りて考える。

02表面で読む人、構造で読む人

1981年、認知科学者のミシュリーン・チーら(Michelene Chi。人がどう熟達するかを研究した人)は、物理学の専門家と初心者に同じ問題カードの束を渡し、「似ている問題同士」に分類してもらう実験をした。結果ははっきり分かれた。初心者は「滑車の問題」「斜面の問題」と、絵に描かれた見た目で束を作った。専門家は「エネルギー保存の問題」「ニュートンの第二法則の問題」と、解くときに使う法則で束を作った。同じカードを見ているのに、見えているものが違う。チーらはこれを、初心者は表面的特徴で、専門家は深層構造(=表面の下に隠れた原理)で問題を分類する、とまとめた。

審査室で起きていたのは、これとよく似たことだと思う。あの資材を前にして、私は「グラフの切り取り方と見出しの組み合わせが、有効性の保証(=この薬は必ず効く、と請け合うこと。適正広告基準が禁じている)につながる構図だ」と読んだ。作成者は「使った単語はどれも禁止語リストにない」と読んだ。私は構図で、相手は字面で分類していた。カードの束の作り方が違っただけで、どちらも真剣に同じ資材を見ていたのだ。

ここで大事なのは、チーらの実験が初心者を責めるものではない、という点だ。表面で分類するのは怠慢ではなく、知識が育つ途中の段階である。専門家も最初は滑車と斜面で束を作っていた。何百問も解くうちに、見た目の奥にある法則が先に見えるようになっただけだ。だから「条文はどこですか」と尋ねる作成者を、勉強不足と切り捨てるのは間違っている。あの問いは、知識の構造がまだ字面の層にあることの、正直な表れなのだ。

 字面で読む(初心者の段階)構造で読む(熟達の段階)
問いの形「この語は禁止リストにあるか」「この構図はどの原理に触れるか」
判断の根拠個別条文・禁止語の有無基本的考え方・規制の目的
リストにない新表現への強さ弱い(前例がないと止まる)強い(原理から推せる)
物理の実験でいえば滑車・斜面という見た目で分類エネルギー保存など法則で分類

そう捉え直すと、審査者の仕事も変わってくる。「基本的考え方を読んでください」と序章を指さすだけでは、束の作り方は変わらない。専門家が法則で見えるようになったのは、法則を暗唱したからではなく、具体的な問題と法則を結びつける経験を重ねたからだ。ならば私がすべきは、目の前の資材という一枚のカードについて、字面の層と構図の層を両方言葉にして、往復して見せることだろう。条文の「外」を読む力は、説教ではなく、こういう一枚ずつの往復からしか育たない。

03原理の話はなぜ「遠い話」に聞こえるか

会議室で、私は言ってしまったことがある。「私たちは生命関連産業の一員なのだから」。その瞬間、向かいに座る担当者の目から光が引いていくのが分かった。視線は手元の資材に落ち、頭の中はたぶん、来週の締切と、修正を報告しなければならない上司の顔に戻っていた。私の言葉は間違っていない。でも、届いていない。あの目の動きを、私は長いこと「意識の低さ」のせいにしていた。

心理学に、解釈レベル理論(=人は対象との心理的距離に応じて、物事の捉え方の「粒の細かさ」を変える、という理論)がある。提唱したのはトロープとリバーマンという二人の研究者だ。遠いものは抽象的に、大づかみに見える。近いものは具体的に、細部まで見える。一年後の旅行は「自分を取り戻す時間」だが、明日の旅行は「充電器を入れたか」になる。距離が変わると、同じ対象でも頭の使い方そのものが切り替わる。

担当者にとって、目の前の資材と納期は「近い」。文言の一つひとつ、グラフの軸、上司の決裁。全部が具体の粒で見えている。一方、業界の原理や患者への責任は、正しいけれど「遠い」。遠いものは抽象のレベルでしか処理されない。つまり私は、具体の粒で世界を見ている人に向かって、抽象の言葉で目の前の一文を裁こうとしていた。相手の頭の中で、私の言葉が着地する場所がなかったのだ。

正論が説教に聞こえるのは、内容が間違っているからではない。距離が合っていないからだ。近い問題を遠い言葉で裁かれると、人は「分かっているけど、今それどころじゃない」と感じる。原理を捨てる必要はない。原理を、相手が今見ている粒の大きさまで降ろしてやる。それは妥協ではなく、翻訳の仕事だと今は思っている。

04伝わらないことの半分は、私のせい

審査歴が長くなるにつれ、私の中にひとつの感覚が育っていた。「序章を読めば、この規制の趣旨は当然わかるはずだ」。指摘の根拠を聞かれて、通知の名前だけ答えて済ませたことが何度もある。相手が黙るのを、納得と取り違えていた。

有名な実験がある。机を指で叩いて、よく知られた曲のリズムを刻む。叩く側は「これだけ叩けば半分は当たるだろう」と見積もる。実際に当たるのは、四十曲に一曲ほど。叩く側の頭の中では曲が鳴っているが、聞く側に届くのは、ただのコツコツという音だけだ。この実験は、心理学者エリザベス・ニュートンが1990年にスタンフォード大学で行ったもの。叩き手の予想と現実の差は、ざっと二十倍あった。

「知識の呪い(curse of knowledge、=一度知ってしまうと、知らなかった頃の自分の見え方を思い出せなくなること)」という名前自体は、その前年の1989年に、経済学者のカメラーらが別の文脈で付けていた。言語学者のピンカーは、読みにくい文章が生まれる最大の原因はこれだと書いている。書き手の頭の中では文脈が鳴っている。読み手には、コツコツしか聞こえていない。呪いの怖さは、かかっている本人にその自覚が持てないことにある。

「なぜこれがわからないのか」と内心で苛立った日の私は、相手を試していたつもりで、実は自分が呪いにかかっていた。私の頭の中では、通知の背景も過去の違反事例も鳴っていた。相手に渡していたのは、通知番号というコツコツだけだった。伝達の失敗は、知らない側の勉強不足である前に、知っている側の想像力の限界である。そう責任の置き場所を引き戻してから、私の指摘文は少し長くなった。根拠を、知らなかった頃の自分に説明するつもりで書くようになったからだ。

知識は増やせるが、無知は取り戻せない。だから、伝わらなかったときに最初に疑うべきは、相手の理解力ではなく、自分の叩き方だ。呪いは解けない。解けないと知っていることだけが、唯一の解毒剤になる。

05書いていない=自由、ではない理由

審査の席で、営業部門の担当者からこう言われたことがある。「この表現、どこにも禁止と書いてありませんよね」。たしかに書いていない。作成要領のどの条文を引いても、その言い回しをずばり禁じる一文はなかった。私は少し黙って、それから「書いていないのは、許されているからではなく、作った人がこの表現を想像できなかったからかもしれません」と答えた。相手は不服そうだったが、この区別は審査の根っこにかかわる。

よく使われる例え話がある。公園の入口に「乗り物の乗り入れ禁止」と書いた人は、自動車や自転車を思い浮かべていた。電動キックボードは知らなかった。では電動キックボードは入ってよいのか。看板の文字だけを見れば「書いていない」。しかし看板が守ろうとしたもの、つまり歩く人の安全に照らせば、答えは明らかだろう。法哲学者のH.L.A.ハート(20世紀イギリスの法理論家)は、これを規則の「開かれた構造」(open texture=どんな規則の言葉にも、作り手が想定しきれなかったふち(縁)の部分が必ず残る、という性質)と呼んだ。規則が不出来だから余白が生まれるのではない。言葉で未来のすべてを書き切ることが、そもそも人間にはできないのだ。

だから条文の余白は「自由地帯」ではない。そこは、規則の目的に立ち返って自分の頭で判断しなければならない場所である。作成要領が序章に「基本的考え方」を最初に置いているのは、飾りではない。条文が沈黙する場面で立ち返るべき原点を、あらかじめ渡しておくためだ。地図の描かれていない道に迷い込んだとき、頼りになるのは目的地の方角である。

ここで「書いていないなら通す」を選ぶことは、規則違反ではない。誰にも咎められないかもしれない。それでも私が線を引くのは、良心の問題としてだ。この資材を読んだ医師が、患者に不利益な判断をする可能性を、私は想像できてしまった。想像できた者には、想像した分の責任がある。条文の沈黙を盾に取ってその責任を手放すことを、私は自分に許したくない。それが、書いていない場所で私が確かめる、譲れない一線である。

06いま届く一歩先に、足場を組む

では、その序章の思想、条文の奥にある「基本的考え方」を、どうやって相手に渡すか。若い頃の私は失敗した。条文の字面ばかり気にする担当者に、いきなり「規制の目的から考えましょう」と説いたのだ。相手はぽかんとして、話は一歩も進まなかった。今ならわかる。あれは、階段の一段目に立つ人に「二階まで一足で跳べ」と言ったのと同じだった。

発達心理学者のヴィゴツキー(20世紀ロシアの心理学者)は、子どもの学びに二つの領域があると考えた。一人でできることと、一人ではできないが手助けがあればできること。この後者を「発達の最近接領域」(=いま届く一歩先の範囲)と呼ぶ。学びが起きるのはこの帯の中だけで、遠すぎる課題はただ跳ね返される。のちにウッド、ブルーナー、ロスの三人(1976年)が、この一歩先を支える手助けを「足場かけ」(scaffolding=建築現場の足場のように、できるようになったら外す一時的な支え)と名づけた。支えは永久の松葉杖ではない。渡り終えたら外すのが前提である。

審査の対話に翻訳すると、こうなる。相手がいま立っているのは「条文の読み方」だ。ならば私が差し出す問いは、そこから半歩だけ上でいい。

先日、まさにこの順で対話した担当者が、数か月後の別の資材で「これ、条文にはないんですけど、目的から考えると引っかかる気がして」と自分から相談に来た。足場は、もう外れていた。抽象的な原理は、説教では渡らない。相手のいる段の半歩上に、問いという足場を一枚ずつ組む。遠回りに見えて、それが原理を渡す唯一の道筋だ。

07具体をひとつではなく、ふたつ並べる

差し戻しの理由を説明して、相手が黙ってしまったことがある。若手の作成者だった。私は該当箇所を指さし、規定の趣旨を語り、なぜこの表現が行き過ぎなのかを丁寧に話したつもりだった。彼はうなずいて帰り、次の資材で、見た目だけ違う同じ問題を持ってきた。私の説明は「この表現を直す」という表面だけを伝えて、その下にある構造を渡せていなかった。

いまの私は、やり方を変えている。当該資材だけを見せない。見た目のまったく違うもう一つの事例を隣に置き、「この二つに共通するものは何でしょう」と本人に比べてもらう。たとえば、グラフの縦軸を切って差を大きく見せた資材と、副作用の記述を小さな文字で末尾に寄せた資材。表面はまるで別物だが、どちらも「読み手の印象を、データが支える範囲より有利な方向へ傾けている」という同じ骨格を持つ。一例だけだと人は表面を覚える。二例を比べると、共通する骨格のほうが浮かび上がる。

これは私の思いつきではない。認知科学者のデドレ・ゲントナー(Dedre Gentner)は、人が類推(=あるものを別のものになぞらえて考えること)をするとき、頭の中で何が起きているかを調べた。表面が似ているかどうかではなく、要素どうしの関係の形を写し取っている。ゲントナーはそう考えた。構造写像理論(=二つの事例の「関係の骨組み」を重ね合わせる、類推の仕組みの説明)と呼ばれる。そしてゲントナー、ローウェンスタイン、トンプソンの三人は2003年、企業の交渉研修でこれを確かめた。交渉の事例を一つずつ別々に学んだグループと、二つを並べて比較させたグループを比べた。比較させたグループのほうが背後の原理を取り出せて、後日の実際の交渉でもその原理を使えた。事例二つの比較を通じて原理を刻み込む、この教え方は analogical encoding(=類推による符号化。比較を通して原理を記憶に刻む学び方)と呼ばれている。魔法ではない。ただ、単独提示より転移(=学んだことを別の場面で使えること)が起きやすい、という地味で確かな知見だ。

条文に書いていないことを教えるとき、私たちはつい抽象を語りたくなる。趣旨、精神、原理。だが抽象は、聞いた瞬間はわかった気にさせて、現場では手がかりにならないことが多い。だから私は抽象を説くのを半分諦めた。かわりに、具体と具体の間に橋を架ける。二つの事例を並べ、共通の骨格を本人の口から言ってもらう。自分で取り出した原理は、他人から渡された原理より長持ちする。「書いていないこと」の教え方は、結局、書いていないものを二つの書かれたものの間から立ち上がらせる作業なのだろう。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 初心者は字面で、専門家は構図で資材を読む。「条文はどこですか」という問いは怠慢ではなく、知識がまだ表面の層にある正直な表れ。切り捨てず、字面と構図の両方を言葉にして往復して見せる。
  2. 伝わらない責任の半分は、知っている側にある。「知識の呪い」は解けないと知ることが唯一の解毒剤。原理はいきなり説かず、相手が立つ段の半歩上に問いの足場を一枚ずつ組んで渡す。
  3. 条文の沈黙は自由地帯ではなく、規則の目的に立ち返って判断する場所。教えるときは抽象を語るより、見た目の違う二つの事例を並べて比較させる。本人が自分で取り出した原理は長持ちする。
出典·参考文献
  1. Chi, M. T. H., Feltovich, P. J., & Glaser, R. Categorization and Representation of Physics Problems by Experts and Novices. Cognitive Science, 1981.(専門家は原理で、初心者は表面で問題を分類することを示した熟達研究の古典)
  2. Trope, Y., & Liberman, N. Construal-Level Theory of Psychological Distance. Psychological Review, 2010.(心理的距離と抽象・具体の解釈レベルを結びつけた理論の総説)
  3. Camerer, C., Loewenstein, G., & Weber, M. The Curse of Knowledge in Economic Settings. Journal of Political Economy, 1989.(「知識の呪い」を実証した原典論文)
  4. Pinker, S. The Sense of Style. Viking, 2014.(知識の呪いを文章術の中心課題として論じた文体論)
  5. Hart, H. L. A. The Concept of Law. Oxford University Press, 1961.(規則の「開かれた構造」を示した法哲学の基本書。邦訳『法の概念』みすず書房)
  6. Vygotsky, L. S. Mind in Society. Harvard University Press, 1978.(発達の最近接領域を含むヴィゴツキーの主要論考の英訳編集版)
  7. Wood, D., Bruner, J. S., & Ross, G. The Role of Tutoring in Problem Solving. Journal of Child Psychology and Psychiatry, 1976.(「足場かけ」という語を導入した原典)
  8. Gentner, D. Structure-Mapping: A Theoretical Framework for Analogy. Cognitive Science, 1983.(類推を構造の写像として定式化した理論の原典)
  9. Gentner, D., Loewenstein, J., & Thompson, L. Learning and Transfer: A General Role for Analogical Encoding. Journal of Educational Psychology, 2003.(事例二つの比較が原理の抽出と転移を促すことを示した実験研究)
  10. Chi, M. T. H., Glaser, R., & Farr, M. J. (Eds.) The Nature of Expertise. Lawrence Erlbaum, 1988.(熟達研究の主要知見を集めた編著)