資材審査に求められる力って、いったい何だろう。研修の資料に並んだ八つの力を、その順番どおりに覚えていけば、いつか「審査ができる人」になれるのだろうか。金曜の夕方に届いた一通の差し戻しメールを、相手はどんな顔で開くんだろう——ふと、そんなことを考える日がある。私はいつも、この問いの手前で足を止めてしまう。

01八つ、覚えれば足りるのか

研修の資料には、たいてい八つほどの力が並んでいる。知識があって、情報を読めて、リスクを嗅ぎ分けて、第六感が働いて、伝えて、相手を動かして、関係を築いて、信頼を積む。間違いではないと思う。たぶん、どれも要る。一つひとつに名前がついていて、それぞれに研修があって、評価シートの欄まで用意されている。

けれど、その一覧を何度眺めても、なぜか手のひらからこぼれていくものがある。八つを並べて、足し算して、合計点を出す。その合計が高い人が、いつもよい審査をするとはかぎらない。むしろ、どの項目も「できます」と答えられる人ほど、現場で空回りしている——そんな場面を、私は何度か見てきた。逆に、欄を埋めるのが下手な人もいる。自分の力を、うまく言葉にできない。それなのに、その人の指摘がなぜか静かに効いている。そういうことも、あるのだ。

健康診断を思い出してみてほしい。検査の数値をぜんぶ覚えたところで、その人が健康だとは言えない。数字の奥にある体の調子のほうが、本当は知りたい。審査も、たぶん同じなんだと思う。覚えるべきは、八つではないのかもしれない。八つの奥に一本通っている、もっと少ない何か。そっちなのだ。

02同じ指摘なのに、効く時と効かない時がある

こんな経験、ないだろうか。まったく同じ内容の指摘をする。ある日は、相手がすっと受け取って、自分から直してくる。でも別の日は、こちらは正しいはずなのに、相手の顔がふっと固くなる。形だけ直して、中身は変わらない。文面はほとんど同じだ。条文の引用も、論理の運びも、変えていない。それなのに、効く時と効かない時がある。これが、どうにも不思議でならない。

同じ薬を同じ量だけ出しても、相手の体調で効き方が変わる。あれと、よく似ている。技能の合計では、この差は説明できない。知識が増えたから効いた、わけではない。伝え方の研修を受けたから届いた、わけでもない。八つの欄をぜんぶ埋めても、この差は埋まらないのだ。だとすれば、八つは何かを指さしているだけなのかもしれない。八つそのものが、本体ではない。

八つがいっせいに指しているのは、ひとつの地点だ。受け手の頭の中で、事実がどれだけ歪むか。資材を読むのは、審査者ではない。その先にいる、前提を持たない医療者であり、説明を聞く患者だ。彼らの頭の中で、事実がねじれていく。その地点を、我が事として感じ取れるかどうか。まず、これが要るんだと思う。

次に、そう感じ取っている自分の読みが、慣れや気分でズレていないか、立ち止まって見直せるかどうか。自分の判断を自分で点検するこの作業を、ここでは校正(=自分のものさし自体がずれていないか測り直すこと)と呼ぶ。そして最後に、その校正の積み重ねを、「この人の指摘なら信じられる」という信頼に変えていけるかどうか。

受け手の頭に立つこの感覚——相手の身になって考えること。そして、その想像を下している自分自身を疑い、読みのズレを点検すること。八つの技能は、結局のところ、この二つの姿勢と、良心の一貫性が、現場で形を変えて出てきたものにすぎない。だから私は、持ち帰るものを三つに絞りたい。気づく力、伝えて直してもらう力、信じてもらう力。順に書いていく。

03気づく——書かれていないものを読む

一つめは、気づく力だ。八つでいえば、知識と、情報を読む力と、リスクを嗅ぎ分ける力と、言葉になる前に働く第六感。この四つは、別々の能力ではないと思う。同じ一つの力を、違う角度から見ているだけなんじゃないか。

審査の価値は、誤りを「見つけた後」ではなく、「見つける前」にある。最初に手を挙げる、その一点だ。誰かが問題を指摘してから動くのは、もう審査とは呼べない。まだ誰も気づいていない段階で、ここは危ういぞ、と手が止まる。その最初の小さな警報こそ、審査者の仕事のいちばん深いところにある。網の目を細かくしていく力も、そう。書いてある原則から、まだ書かれていない場面まで推し量る力も、そう。書かれていない不在を察する感覚も、言葉になる前のざわつきも、すべては「ズレに気づく力」の、別の表れなのだ。

事実のズレが、わざとした意図から起きることは、じつはそう多くない。多いのは、欠落と並べ方が生む含意(=はっきり書いていないのに、文の置き方で相手に伝わってしまう意味)のほうだ。書いてあることは、ぜんぶ正しい。一つひとつの文は、どこを切り取っても事実だ。それでも、並べ方と、省かれた一行とで、読み手の頭には事実と違う像が結ばれてしまう。言語哲学者のグライスは、人は語られた言葉そのものより、その場で「言わずに含ませたもの」を読み取って意味を受け取るのだ、と説いた。これを会話の含意(=言葉にしていないのに、文脈で相手に伝わってしまう中身)と呼ぶ。同じことが、資材でも起きている。

レントゲンを思い浮かべるといいかもしれない。写っているものを数えるだけでは、医師は務まらない。「写っているべきなのに、写っていない影」を読む。それが診断だ。形式の照合だけでは、こうした誤導(=読み手を事実と違う理解へ導いてしまうこと)は、そもそも捕まえられない。チェックリストは「書いてあるもの」しか見られないからだ。書かれていない一行が生む誤導をつかまえるには、受け手の頭を一度、自分の中で組み直してみるしかない。前提のない人がこれを読んだら、どんな像を結ぶだろう。その像は、事実とどれだけ違うだろう。倫理学者のシセラ・ボクは、はっきりした嘘よりも、省略と沈黙が生む誤導のほうが見つけにくく、本人も悪いと気づきにくい、と書いている。気づくとは、その沈黙を読むことなのだ。

04伝えて直してもらう——相手が自分の意志で直すまで

二つめは、伝えて直してもらう力だ。八つでいえば、伝える力と、相手を動かす力と、関係を築く力。気づいただけでは、まだ何も変わらない。指摘が相手に届いて、相手が自分の手で直す。そこではじめて、事実が守られる。

どれだけ鋭く気づいても、相手にわかる言葉へ翻訳できなければ、届かない。そして相手が「自分で直したい」と思う気持ちに変えられなければ、やっぱり届かない。届かない正しさは、存在しない正しさと同じだ——厳しい言い方かもしれない。でも、相手の机の上で握りつぶされた正論は、世界を一ミリも動かさないのだ。正しさは、相手の中で「なるほど」という納得に変わって、はじめて現物を変えていく。

「論破」では足りない。一回の差し戻しは、目の前の現物を直すだけだ。直したその瞬間は、たしかに正される。でも、本当に守りたいのは、誰も見ていない次回も、同じ作り手が同じ水準で正しく作る——その状態のほうだ。それは、論破では作れない。言い負かされた相手に残るのは、納得ではなく屈服だ。屈服は、見ている人がいなくなれば、すぐ元に戻ってしまう。残るのは、相手が自分の判断軸として取り込んだ理解だけ。そこまで運べるかどうか、なのだ。

運転にたとえるなら、助手席から「危ない」と叫ぶだけでは足りない。本人がハンドルを握って、自分で速度を落とす。そこまで運んで、ようやく事故は防げる。焦って言い切りたくなる気持ちも、よくわかる。でも、だからこそ審査者は、敵でも仲間でもない、第三者の距離に立つ必要がある。仲間になりすぎれば、馴れ合いで甘くなる。敵になりすぎれば、相手は身を守ろうとして耳を閉じてしまう。ちゃんと独立していて、それでいて信頼されている。この二つが同時に成り立つ距離が、伝えて直してもらう力の置きどころだ。哲学者のオノラ・オニールは、人が本当に求めているのは「信頼」そのものではなく、相手が「信頼に値すること」だ、と言った。距離を保ちながら、信頼に値する。そのうえで、相手が自分の意志で直すところまで、そっと運んでいく。

気づく力

条文の照合は入口にすぎない。本質は、書かれていない不在と、並べ方が生む含意を見つけること。受け手の頭を自分の中で組み直し、事実からのズレが生まれる地点に、最初のフラグを立てる。

伝えて直してもらう力

届かない正しさは、存在しない正しさ。相手にわかる言葉に翻訳し、自分から直したいという納得に変える。論破ではなく、誰も見ていない次回も正しく作られる状態をつくる。第三者の距離が要る。

信じてもらう力

同じ指摘でも「誰が言うか」で効きが変わる。ふだんの一貫した態度の積み重ねが、「この人が言うなら」という信頼になる。①と②は、この信頼に乗ってはじめて相手に届く。すぐには手に入らない。

三つに共通する芯

相手の身になって考え、同時に、自分の判断も疑う。技能は良心に奉仕してはじめて効く。この一つの姿勢が、三つすべてに通っている。

05信じてもらう——すぐには手に入らないもの

三つめは、信じてもらう力だ。八つでいえば、最後に置かれることの多い「信頼を積む力」。でも私は、これを八番目の項目だとは思っていない。ほかの七つが乗っかる土台なんだと考えている。

効く時と効かない時の、あの差。正体は、ここにある。同じ指摘でも、誰が言うかで効きが変わる。言うことが一貫していて、次の出方が読めて、ちゃんと独立している。その積み重ねが、時間をかけて静かに沈んでいって、「この人が言うなら」という信頼になる。信頼の厚い相手の指摘は、すっと伝わる。信頼が薄ければ、同じ言葉が散らばってしまって、届かない。一つひとつの判断を、組織の習慣に変えていくのも、この信頼なのだ。

水を思い浮かべるといい。澄んだ水なら、底に沈んだスプーンまではっきり見える。濁った水では、同じ光が乱れて、何も見えない。指摘という光が同じでも、通る水が違えば、結果は変わってしまう。信頼だけは、すぐには手に入らない。能力なら、その日に発揮できる。知識は今日覚えられるし、伝え方は明日から変えられる。でも信頼だけは、今日というわけにはいかない。良心が日々の判断で一貫しているから、ちゃんと独立していられる。独立していられるから、指摘が効く。この順番は、飛ばせない。逆向きには流れないのだ。

怖いのは、ここだ。技能がどれだけ高くても、良心が一度でも揺れれば、信頼は濁る。あの時だけ甘くした。あの相手にだけ厳しくした。そのたった一度が、ほかのすべての指摘の効きを落としてしまう。気づく力も、伝えて直してもらう力も、信頼が濁れば散ってしまうのだ。だから審査者の本当の成果物は、個別の判断ではない。ブレない自分という、目に見えない資産だ。アリストテレスは、正しい判断を一度下す力ではなく、状況に応じて毎回ちょうどよく下し続ける状態を、実践知(=知識ではなく、その場でちょうどよく行動できる慣れた賢さ)と呼んだ。一度の正解ではなく、一貫した状態。それが、信頼を澄ませていく。

06三つを貫く一つの姿勢

三つは、横に並んでいるわけじゃない。入れ子になっている。気づく力と、伝えて直してもらう力。この二つは技能だ。けれど技能は、相手に信じてもらえなければ、伝わらない。どれだけ鋭く気づいて、どれだけ巧みに伝えても、信じてもらえなければ届かないのだ。①②が中身、③がそれを相手まで運ぶ路——そういう関係になっている。

研修資料の八次元三つにまとまる能力三つを貫くもの
知識/情報を読む力/リスク検知/第六感① 気づく力相手の身になって考え、同時に、自分の判断も疑う。良心を、ぶれずに保つ。
伝達力/行動変容/関係構築② 伝えて直してもらう力
信頼を積む力③ 信じてもらう力

そして、片翼では飛べない。技能だけの審査者は、鋭く気づいて、巧みに伝えるのに、なぜか信じてもらえない。信頼を育てていないからだ。逆に、良心だけの審査者は、誠実で一貫しているのに、気づけず、伝えて直してもらえない。技能がないからだ。どちらも未完成で、どちらも現場では空回りしてしまう。だから、両方が要る。良心を技能に乗せて、毎日それを動かし続ける。それが完成形なんだと思う。

三つを貫くものは、結局のところ、ひとつの姿勢だ。相手の身になって、その人に見えている像を想像する。そして同時に、その想像を下している自分自身を疑って、読みのズレを点検する。相手の外に立ち、自分の内にも立つ。外と内に、同時に立つ。心理学者のフラベルは、自分の考えを自分で監視する力(メタ認知)に名前をつけた。審査者に要るのは、それを受け手への想像と二重写しにする力だ。この同時性が、三つすべてに通っている。

ひとつ、付け加えたい。この力は、審査する側だけのものではない。資材を申請する側にも、まったく同じ力が効く。受け手の頭に立って、自分の作りのズレを点検できる作り手は、そもそも危うい資材を出さない。審査と申請は、向かい合う対岸ではなくて、じつは同じ岸に立っているのかもしれない。

07結び——日々、自分で気づくために

この三つは、研修で教わるのは、たぶん難しい。信頼はすぐには手に入らないし、感じ取る力は、講義では手渡せない。残された道は、たぶん一つだけだ。日々の業務の中で、自分で気づくこと。気づくための問いを、あらかじめ自分に手渡しておくこと。

私が机の引き出しにしまっている問いを、四つ、ここに置いていく。完璧な人間が持つ、立派な問いではない。むしろ、しょっちゅう間違える私が、間違える前にどうにか立ち止まるための、手すりのようなものだ。階段の手すりと同じで、握るたびに、転ばずにすむ。

受け手置換

この一文を、前提を持たない医療者や患者が読んだら、事実とどれだけ違う像を結ぶか。適合チェックの前に、一度その人の頭で読み直したか。

不在の確認

ここに「あるべきなのに書かれていない」情報はないか。この並べ方は、何を暗に示しているか。書かれたものだけを見て、済ませていないか。

校正

「問題なし」と読んだこの判断、自分の水準を過信していないか。馴れ合いに寄って甘くした、対立を恐れて言い切れなかった瞬間はなかったか。

一貫性

昨日の自分と今日の自分は、同じ事案に同じ判断を返すか。相手や状況で、基準を揺らさなかったか。その一貫性が、信頼を厚くする。

哲学者で教育者のドナルド・ショーンは、優れた実践者は、行為のさなかに自分の判断を振り返り続ける、と書いた。動きながら、自分を見直す。審査の本当の成果物は、個別の判断書ではない。この四つの問いを毎日くぐり抜けるなかで、少しずつ整っていく、ブレない自分のほうなのだ。判断は紙に残る。けれど、それを下した自分は、明日もまた、次の資材の前に座る。

八つを覚えなくてもいい、とまでは言わない。たぶん、どれも要る。ただ、八つの奥にある三つと、それを貫く一つの姿勢さえ見失わなければ、八つは自然とついてくる。そう信じて、私は今日も金曜の夕方に、差し戻しのメールを書く。相手がどんな顔でそれを開くのかを、想像しながら。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 資材審査の本質は八つの技能ではなく、三つに束ねられる。気づく力・伝えて直してもらう力・信じてもらう力。三つは並列ではなく入れ子で、相手に信じてもらえなければ技能は届かない。
  2. すべてを貫くのは一つの姿勢、すなわち相手の身になって考え、同時に自分の判断も疑うこと。技能は良心に奉仕してはじめて効く。「誰が言うか」で効きが変わるのは、ふだんの一貫した態度の積み重ねが信頼になり、その信頼が技能の通り道になるからだ。
  3. だから審査者の真の成果物は、個別の判断ではなく「ブレない自分」という資産であり、それは日々の自己点検(受け手置換・不在・校正・一貫性)でしか磨けない。問いはひとつに畳める。この指摘が効いたのは、内容の正しさか、私への信頼の蓄積か
出典·参考文献
  1. J. H. Flavell. Metacognition and Cognitive Monitoring. American Psychologist, 1979. (自分の読みを点検する力=メタ認知の理論的根拠)
  2. Donald A. Schön. The Reflective Practitioner. Basic Books, 1983. (行為の中の省察。日々の自己点検という着地の背景)
  3. H. P. Grice. Logic and Conversation. Syntax and Semantics 3, 1975. (会話の含意。語られていないものが受け手にどう効くか)
  4. Sissela Bok. Lying: Moral Choice in Public and Private Life. Pantheon, 1978. (明示の虚偽でなく、省略と沈黙が生む誤導)
  5. Onora O'Neill. A Question of Trust. BBC Reith Lectures, Cambridge University Press, 2002. (信頼そのものより「信頼に値すること」)
  6. アリストテレス. ニコマコス倫理学. (フロネーシス=実践知。一度の正解でなく一貫した状態)
  7. 厚生労働省. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 2018年9月25日. (資材審査が立つ規範の一次根拠)
  8. World Health Organization. Ethical Criteria for Medicinal Drug Promotion. WHO, 1988. (受け手保護の国際的原則)