相手の主張を受け入れることは、敗北なのだろうか。審査者が指摘を引っ込めたら審査の負けで、作成者が表現を直したら作成の負け——そんなふうに数えはじめた瞬間、私たちは何を見失っているのだろう。差し戻しのやり取りが、いつのまにか「どちらが折れるか」の話に変わっていく。その手前で、私はいつも立ち止まってしまう。
01勝ち負けに見えてしまう構図
一通の差し戻しから始まる。審査者が「この表現は言いすぎではないか」と書く。作成者が「いや、ここは元データに基づいている」と返す。審査者が条文(=守るべきルールの条文)を引く。作成者が試験の数字を引く。やり取りが二、三往復するうちに、文面の温度が少しずつ上がっていく。最初は資材の話だったはずなのに、途中から、なんだか「自分の判断が正しいかどうか」の話になっている。
なぜ、こうなるのか。理由ははっきりしている。差し戻しは、構造として「片方が直す」で終わるからだ。指摘が残れば作成者が書き直す。指摘が消えれば審査者が引き下げる。どちらかが動いて、どちらかが動かない。出口がその二つしかないように見えると、人はそれを「自分が折れるか、相手を折るか」と読んでしまう。直すこと自体が、負けを認める行為のように感じられてくる。
問題は、勝ち負けで数えはじめると、判断の基準が静かにすり替わることだ。本来の問いは「この資材を読んだ医療者や患者の頭に、事実と違う像が結ばれないか」だった。ところが攻防が続くと、問いがいつのまにか「この一往復で、自分の面目が立つか」に置き換わる。同じ言葉で議論しているのに、見ている的が、二人ともずれていく。
ここまで簡単にすり替わるのは、たぶん、立場に名前がついているからだ。審査する人、作る人。役割の名札を背負って机に着いた瞬間、指摘は「私の意見」になり、反論は「私への反論」になる。心理学者のレオン・フェスティンガーは、人は自分の判断と外からの否定が食い違うと、不快さ(=認知的不協和。自分の中のつじつまが合わない、あの居心地の悪さ)を抱え、それを消すために、相手ではなく自分の中で帳尻を合わせようとすると書いた。直すより、突っぱねるほうが、自分の中では楽なのだ。だから、正しさより先に、引けない気持ちが立ち上がってしまう。
けれど、よく見ると、この構図には抜けているものがある。差し戻しの机には、本当はもう一人いる。資材を受け取る医療者と、その先の患者だ。二人が勝ち負けを競っている間、その三人目は議論の外に座っている。誰が折れたかは、その人には関係ない。届くのは、最後に世に出た一枚の資材だけだ。勝ち負けの線を引いた瞬間に見えなくなるのは、いつも、この三人目の顔なのだと思う。
02受け入れることは、負けなのか
差し戻しのメールに、相手から長い返信が来る。読み進めるうちに、こちらの指摘の一つが、実は事実をきちんと踏まえていなかったと気づく。相手の言い分のほうが正しい。さて、ここで何が起きるか。胸の奥が、少しだけ重くなる。これを認めたら、押し負けたことにならないか。次から軽く見られないか——その小さなためらいを、私は知っている。たぶん、審査する側も、申請する側も、同じ場所で立ち止まっている。
こちらが指摘を通せば一勝、向こうが押し返せば一敗。そういう数え方を始めると、もう事実は見えなくなる。見えているのは、自分の主張が立つか倒れるか、それだけだ。けれど、よく考えてほしい。その勝敗表に、患者も医療者も載っていない。誰が勝ったかを競っているあいだ、肝心の「誤って導く資材が世に出るかどうか」は、宙に浮いたままだ。
相手の正しさを受け入れることは、負けではない。それは、二人がかりで事実に近づいた、という一歩だ。論破して勝つことと、相手の正しさを取り込むことは、似ているようでまるで違う。論破は、相手を黙らせて自分の主張を残す。取り込みは、自分の主張を一度ほどいて、より正確なものに組み直す。前者で残るのは「勝った私」で、後者で残るのは「より誤りの少ない資材」だ。守りたかったのは、どちらだったか。
| 論破して勝つ | 正しさを取り込む | |
|---|---|---|
| 焦点 | どちらの立場が残るか | どちらの言い分が事実に近いか |
| 後に残るもの | 勝った側の主張と、負けた側の屈服 | より誤りの少ない、一つの資材 |
| 次回への効き | 見ている人がいなくなれば元に戻る | 両者の判断軸として残り、次も効く |
| 患者・医療者は | 勝敗表に載っていない | 守るべき相手として中心にいる |
受け入れることが前進になるのは、交渉論の見方を借りるとよくわかる。フィッシャーとユーリーという二人の研究者がいて、彼らは「立場ではなく、利害に焦点を当てよ」と書いた(=表に出した主張の勝ち負けではなく、その奥でお互いが本当に守りたいものを見よ、という考え方)。審査者の立場は「直せ」、作り手の立場は「直したくない」。立場だけを突き合わせれば、勝つか負けるかしかない。だが奥にある本当の願い(=利害)をたどれば、両者が守りたいものは一つに重なる——誤って導かれていない情報が、それを必要とする人に届くこと。立場の上では対立していても、利害の上では、二人は同じ側にいる。
もう一人、科学哲学者のカール・ポパーを置いておきたい。彼は、知識が進むのは、正しさを積み上げるときではなく、誤りを見つけて手放すときだと考えた。自分の説が誤りだと示されること(=反証されること)を、敗北ではなく前進とみなす。この態度を、審査の机の上に移してみる。自分の指摘が誤りだと示されたとき、不機嫌になるのではなく「一つ誤りを減らせた」と受け取れるか。それができる人だけが、本当の意味で正しさに近づいていく。受け入れる力は、弱さではない。誤りから学ぶ姿勢の、別の名前だ。
誤解しないでほしい。受け入れるとは、何でも譲ることではない。事実に照らして相手が正しいときに、立場のメンツを理由に抵抗しない、ということだ。逆に、相手が正しくないなら、受け入れてはいけない。そこで折れるのは、馴れ合いであって受容ではない。受容と妥協は違う。受容は事実に従うこと、妥協は相手の圧に従うこと。前者は事実を強くし、後者は事実を弱める。見分ける物差しは、いつも一つ——いま自分が従おうとしているのは、相手の正しさか、それとも対立を避けたい気持ちか。
03本当の敵は、机の向こうにはいない
差し戻しのメールを送ると、たいてい返信が来る。「ご指摘は理解しますが、この表現は問題ないと考えます」。審査する側は、押し戻す。作る側は、押し返す。やり取りが二往復、三往復と続くうちに、いつのまにか話の中心が、資材そのものから「どちらが折れるか」に移っていく。受け入れたら負け。通したら勝ち。そんな空気が、机の両側に薄く漂いはじめる。
けれど、少し引いて見てほしい。この攻防で本当に結果を引き受ける人(=利害関係者)は、机のどちら側にもいない。その資材を読むのは、審査者でも作成者でもない。前提を持たない医療者であり、説明を聞く患者だ。誤って導かれた一行が通れば、損をするのはその人たちで、勝った負けたを争っていた二人ではない。
審査する側と作る側が向き合うべき相手は、互いではなく、同じ一つのリスクだ。誤って導く資材が、それを見抜く前提を持たない人の手に渡ること。これが共通の敵だ。机をはさんで睨み合っている二人は、本当は同じ方向を向いて、同じものから人を守ろうとしている。向きが見えていないだけで。
これを忘れやすいのは、攻防が始まると、目の前の相手の顔が、リスクの像より大きく見えるからだ。相手が眉をひそめる。語気が強くなる。すると人は、遠くにいる見えない患者よりも、目の前で反論してくる人間のほうを「敵」と錯覚する。近くの摩擦は手で触れるが、遠くの被害は想像でしか触れない。この距離の差が、敵の位置を取り違えさせる。世界保健機関(=WHO。国連の保健機関)が一九八八年にまとめた医薬品プロモーションの倫理基準は、宣伝の良し悪しを判じる物差しを、作り手の都合でも審査の体面でもなく、最終的に「患者の利益」に置いた。誰が勝つかではない。誰が守られるか。物差しは最初から、机の外にある。
04「正しさ」は、勝ち取るものではなく分け合うもの
勝ち負けの構図がやっかいなのは、「正しさ」を、どちらか一方が握る所有物に変えてしまうことだ。私の指摘が正しい。いや、私の表現が正しい。そう言い合っているとき、正しさは奪い合いの対象になっている。勝ったほうが正しさを持ち帰り、負けたほうは手ぶらで帰る。そういう前提に、いつのまにか立っている。
でも、資材の正しさは、誰かの持ち物にできる種類のものではないと思う。ある資材が誤りを含まないという状態は、審査者だけでも、作成者だけでも作れない。作る側が受け手の頭に立って書き、審査する側がそのズレを直して、二人ぶんの目を重ねたところに、はじめて生まれる。正しさは、勝者の手に渡る戦利品ではなく、二人で支える共有物(=みんなで持つもの)だ。
だとすれば、相手の主張を受け入れることは、敗北ではない。共有物に、相手の正しさを一つ足す行為だ。作成者の「この読者にはこの表現のほうが正確に伝わる」という主張が妥当なら、それを受け入れた審査者は、負けたのではない。資材の正しさを一段、厚くしている。逆に、審査者の指摘を作成者が受け入れるのも同じだ。取られたのではなく、足したのだ。正しさは、足し算でしか増えない。
正しさが足し算でしか増えないのは、誤った情報が、たいてい一人の死角から生まれるからだ。作る側には、自分の作りの前提が見えない。長く向き合った資材ほど、書き手は「これくらい伝わるはず」という思い込みを持つ。その死角は、別の立場の目でしか照らせない。審査する側にも、現場の文脈という死角がある。二人ぶんの視点を足したとき、片方では見えなかったズレが浮かぶ。正しさを奪い合えば、視点は一つに減る。分け合えば、二つに増える。死角を消すには、増やすほうしかない。
05越える——同じ側に立ち直す
勝ち負けで数えているかぎり、両者がそろって負ける道がある。審査が押し切って、作成者が納得しないまま形だけ直した資材。作成者が押し返して、危うい含みを残したまま通った資材。どちらも、机の上では誰かが勝ったように見える。でも、その紙はやがて、前提を持たない医療者や患者のところへ届く。そこで事実がねじれれば、勝った側も負けている。勝敗の本当の判定者は、机の向かいの相手ではない。資材を受け取る、その先の人だ。
経営学者のメアリー・パーカー・フォレットは、対立の収め方を三つに分けた。一方が押し切る「支配」、互いに少しずつ削る「妥協」、そして双方の本当の関心を満たす第三の答えを見つける「統合」だ。支配では負けた側に不満が残り、妥協では両方が欲しいものを削る。フォレットは、対立そのものを悪とせず、よりよい答えを生む材料にできると書いた。審査と作成者が争っているのは、表向きは文言だ。けれどその奥にある本当の関心——正確で、役に立つ資材を届けたい——は、実は重なっている。重なりを見つければ、受け入れは敗北ではなく、二人で第三の答えにたどり着いた合図になる。
では、争いを統合に変えるために、現場で何ができるのか。私が効くと感じている手立てを、四つ書いておく。
- 共通の受け手像を、先に握る。文言の是非を議論する前に、「この資材を最初に読むのは、どんな前提の医療者か」を二人で言葉にする。受け手を同じ顔として共有できれば、議論の的が「私とあなた」から「あの読み手にどう映るか」へ移る。的が外に出た瞬間、机の上の勝ち負けは小さくなる。
- 指摘を、人格ではなく事実に向ける。「あなたの書き方が雑だ」ではなく「この一文は、こう読まれる余地がある」。品質管理を築いたW・エドワーズ・デミングは、現場で起きる問題の大半は人ではなく仕組み(=作業の流れや前提)の側にあると説いた。人を責めれば相手は守りに入り、耳を閉じる。事実と仕組みに向ければ、二人で同じ問題をのぞき込める。
- 第三者の距離を保ちつつ、敵にはならない。審査は独立していなければ甘くなる。だが独立は、敵対とは違う。距離を保ったまま、相手の味方であり続ける。「あなたの資材が、余計な傷で足を引っ張られないように」という立ち位置だ。独立と協力は、両立できる。
- 早い段階で、対話する。でき上がってからの差し戻しは、勝ち負けになりやすい。相手はもう作り込んでいて、引き返すのは損だからだ。まだ形になる前、迷っている段階で言葉を交わせば、どちらの作品でもないうちに直せる。早さは、勝敗そのものを消す。
こうした手立てが回るには、土台がいる。組織行動論のエイミー・エドモンドソンは、よく学び、よく直すチームに共通するものとして「心理的安全性(=下手な指摘や反論をしても、罰せられたり馬鹿にされたりしないという安心)」を挙げた。安心がなければ、作成者は「ここが不安だ」と言い出せず、審査は「これは見落としかもしれない」と弱みを見せられない。隠し合いが始まり、議論は表面の勝ち負けへ痩せていく。逆に、弱さを見せ合えるチームでは、受け入れは降伏ではなく、率直さの証になる。
受け手像を先に握る
文言の是非より先に、「最初に読むのはどんな前提の人か」を二人で言葉にする。的が「私とあなた」から「あの読み手」へ移れば、机の上の勝ち負けは小さくなる。争いの前に、同じ顔を共有する。
事実に向け、早く話す
人格ではなく一文の読まれ方を指摘する(デミング=問題は人でなく仕組み)。完成後でなく迷っている段階で対話する。罰されない安心(=心理的安全性)があってはじめて、受け入れは降伏でなく率直さになる。
06同じ岸の、別の持ち場
第12回の終わりに、審査と申請は対岸ではなく同じ岸に立っているのかもしれない、と書いた。ここで、その続きを言いたい。同じ岸に立っているなら、二人は別々の仕事をしているのではない。一つの仕事を、別の持ち場で分担しているのだ。
厚生労働省が二〇一八年に示した医療用医薬品の販売情報提供活動に関する指針(=販売情報提供活動ガイドライン)は、情報を提供する側に、根拠に基づき、正確で、誤解を招かない情報を届ける責任を負わせている。この責任は、作る側だけのものでも、審査する側だけのものでもない。資材が世に出るまでの全員にかかっている。作成者が一次の防波堤、審査者が二次の防波堤。順番は違っても、守っている海岸線は一つだ。
勝ち負けの構図は、この防波堤を内側から崩す。審査者が「負けたくない」から本来通せる表現まで意地で止めれば、現場に届くべき情報が遅れる。作成者が「通したい」から本来直すべき一行を押し通せば、誤った情報が外へ出る。どちらの勝ちたい気持ちも、守るべき海岸線の側から見れば、同じ穴になる。守る相手を見失った防波堤は、ただの障害物だ。
どちらの勝ちたい気持ちも同じ穴になるのは、二人のゴールが、最初から同じだからだ。作る側の本当のゴールは、資材を通すことではない。正確な情報で、適正な使用を助けることだ。審査する側のゴールも、差し戻すことではない。同じく、適正な使用を助けることだ。手段が「作る」と「確かめる」に分かれているだけで、目的地は一つしかない。目的地が同じなら、二人は競争相手ではなく、同じ目的地へ別ルートで荷を運ぶ同行者だ。一つの仲間(=one team。立場を越えた一つのチーム)というのは、仲良くすることではない。同じ目的地を、別の持ち場から見張り続けることだと思う。
07結び——勝ち負けの線を、引き直す
差し戻しの一通をめぐって、机の両側で何が起きているか。審査する側は「見逃せば自分の責任になる」と身構え、作る側は「ここまで練ったものを否定された」と身を固くする。どちらも真剣だ。真剣だからこそ、いつのまにか相手が敵に見えてくる。指摘を通せば審査の勝ち、押し返せば作り手の勝ち——そんな点数表が、誰の頭の中にも、うっすらと浮かんでいる。
だが、その点数表は、たぶん測る相手を間違えている。審査と作り手が競っているように見えて、本当の相手は机の向かいにはいない。誤って導く資材が、それと気づかれないまま医療者や患者のもとへ届く——立ち向かうべきは、その一点だ。相手の主張を受け入れることは、自分が負けることではない。二人がかりで、その一点を一ミリ押し戻すことだ。
心理学者のキャロル・タヴリスとエリオット・アロンソンは、人は自分の判断を間違いと認める瞬間に強い不快(=認知的不協和)を覚え、それを避けるために、かえって最初の立場へしがみつくと書いた。「直したら負け」という感覚は、正しさの問題ではなく、自分を守る反射なのだ。けれど、その反射に従って立場を守りきった先に残るのは、勝者ではない。誰のチェックも通り抜けた、危うい一文だけだ。
だから、線を引き直したい。勝ち負けの線は、机の真ん中を横切っている。one team(=立場を越えた一つのチーム)の線は、机の手前で二人を同じ側に束ね、向こう側に「誤って導く資材が届くリスク」を置く。組織行動学のエイミー・エドモンドソンは、すぐれたチームは固定された一団ではなく、その都度組み直される協働(=teaming。案件ごとに組み直すチーム運営)だと言う。審査と作り手は、案件ごとに組み直される、二人一組のチームなのかもしれない。
| 見るところ | 攻防の構図 | one team の構図 |
|---|---|---|
| 本当の相手は誰か | 机の向かいにいる相手。通すか押し返すかを競う | 誤って導く資材が、気づかれず受け手に届くこと |
| 「受け入れる」の意味 | 自分の負け。立場を守れなかった印 | 見落としを取り込む前進。二人で一ミリ押し戻すこと |
| ぶつかる単位 | 立場(この一文を通す/落とす) | 利害(受け手に正しく伝わってほしい)。利害は同じ |
| 勝ち負けの線の位置 | 机の真ん中を横切る | 机の手前。二人を同じ側に束ね、リスクを向こうに置く |
| 残るもの | 勝者の満足と、通り抜けた危うい一文 | 正された現物と、次回も組み直せる二人の信頼 |
受け入れは、屈服ではない。相手の指摘の中に、自分が見落としていた受け手の像を見つけ、それを自分の判断に取り込むこと。第12回で、審査と申請は対岸ではなく同じ岸に立っていると書いた。その岸の上で、何を守るために並ぶのか。それが、この回の問いだった。では、攻防の反射に流されかけたとき、何を自分に問えばいいか。私が引き出しにしまっている問いを、四つ置いていく。完璧な人間の問いではない。とっさに「負けたくない」と身構える私が、その手前で立ち止まるための、手すりだ。
相手か、リスクか
いま自分が押し戻そうとしているのは、机の向かいの相手か、それとも誤って導く資材が受け手に届くことか。負けたくない、で動いていないか。
受け入れの線引き
この指摘を受け入れたら、自分は何を失うのか。失うのは面子か、それとも本当に守るべき正しさか。混同していないか。
立場の奥の利害
相手の「通したい/落としたい」の奥にある願いを、一度言葉にしてみたか。そこに、自分と同じ利害が隠れていないか。
同じ側に立てたか
この一件を終えたとき、相手は次もこちらと組めると感じるか。勝った気でいて、明日の二人一組を壊していないか。
組織学習を研究したクリス・アージリスは、人は対立を避けようとして自分の前提を守る「防御の習慣」に陥り、そのせいで本当に直すべき前提に手が届かなくなると指摘した。攻防の点数表は、まさにその防御の習慣だ。点を取りにいくのをやめて、二人で同じ前提を疑い直せたとき、はじめて資材は本当に直る。受け入れは敗北ではない。それは、勝ち負けの線そのものを引き直す、いちばん静かな一手だ。そう思って、私は今日も、差し戻しのメールに一行を書き足す。「ここは、一緒に考えさせてください」。
- 審査と作り手が競っているように見えて、本当の相手は机の向かいにいない。立ち向かうべきは、誤って導く資材が気づかれず受け手に届くこと。点数表は、測る相手を間違えている。
- 受け入れを敗北と感じるのは、正しさの問題ではなく自分を守る反射(認知的不協和=自分のつじつまが合わない居心地の悪さ)だ。立場(通す/落とす)でぶつかれば勝負になるが、利害(受け手に正しく伝わってほしい)に降りれば、二人の利害は同じだったと気づく。
- だから引き直すべきは、机の真ん中を横切る勝ち負けの線。それを机の手前に移し、二人を同じ側に束ねてリスクを向こうに置く。問いはひとつに畳める。いま押し戻したいのは、相手か、それともリスクか。
- Leon Festinger. A Theory of Cognitive Dissonance. Stanford University Press, 1957. (否定と判断の食い違いが生む不快=認知的不協和)
- Roger Fisher & William Ury. Getting to Yes. Houghton Mifflin, 1981. (人と問題を切り離し、立場でなく利害を見る原則)
- Karl Popper. Conjectures and Refutations. Routledge, 1963. (知識は誤りを見つけ手放すことで進む=反証主義)
- Mary Parker Follett. Constructive Conflict. 1925(in Dynamic Administration, 1941). (勝ち負け=支配や妥協ではなく、両者の利害を満たす統合の発想)
- W. Edwards Deming. Out of the Crisis. MIT Center for Advanced Engineering Study, 1982. (問題の多くは人でなく仕組み/プロセスに由来する)
- Amy C. Edmondson. Teaming: How Organizations Learn, Innovate, and Compete. Jossey-Bass, 2012. (固定した一団でなく、案件ごとに組み直される協働=teaming/心理的安全性)
- Chris Argyris. Teaching Smart People How to Learn. Harvard Business Review, 1991. (対立を避けて前提を守る「防御の習慣」と二重ループ学習)
- Carol Tavris & Elliot Aronson. Mistakes Were Made (But Not by Me). Harcourt, 2007. (受け入れを敗北と感じる正体=自己正当化)
- World Health Organization. Ethical Criteria for Medicinal Drug Promotion. WHO, 1988. (受け手=医療者・患者の保護という国際的原則)
- 厚生労働省. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 2018年9月25日. (審査と作り手が共に守る規範の一次根拠)