第16回。今回は連載の設計図にあたる回として、「リスク」という一語が現場でどう割れるのかを描く。同じ三文字を、人はそれぞれ別の物の名前として使っている。資材を見るたびに私がぶつかるその割れ目を、一つずつ開いていく。
01同じ「リスクが高い」が、別のものを指していた
ある資材(=医薬品の効能や使い方を医師に伝えるための説明文書)の打ち合わせで、私たちは一つの表現をめぐって止まった。効能の説明文に、ある一行があった。私はそれを残すと誤解を招きやすいと考え、削ったほうがいいと言った。「この表現はリスクが高いです」。作り手は、すぐに首を振った。「いや、それを削るほうがリスクが高い。読んだ医師が効果を低く見積もってしまう」。
会議は十分間ほど平行線をたどり、その日は差し戻しになった。帰り道、私はずっと引っかかっていた。二人とも「リスクが高い」と言った。同じ言葉だ。なのに、出てくる結論は正反対だった。片方は「残すと危ない」、もう片方は「削ると危ない」。どちらかが嘘をついているわけではない。机に向かって、私は二人が同じ語で何を指していたのかをノートに書き出してみた。
私が言った「リスク」は、誤読されて不適切な処方につながる見込みのことだった。相手が言った「リスク」は、正しい情報が伝わらず患者の利益を損なう見込みのことだった。指している中身が、最初から違っていた。同じ三文字を、別の物の名前として使っていた。それに気づくまで、私たちはずっとすれ違ったまま、声だけ大きくしていた。
あとで分かったのだが、作り手がその一行を残したがったのには理由があった。前に似た資材で説明を削ったところ、現場の医師から「この場合はどうするのか」という問い合わせが続けて入り、対応に追われたという。一行を入れるかどうかは、その人にとって過去の苦い経験を背負った判断だった。私が「言いすぎ」とだけ見ていた一文の裏に、相手の事情があった。
言葉のやりとりがそもそもなぜ成り立つのかを調べた研究者に、ハーバート・クラーク(=会話の仕組みを調べた心理学者)がいる。彼は共通基盤(common ground=話し手と聞き手が「これは互いに分かっているはず」と前提にしている知識のかたまり)という考えを立てた。会話は、言葉そのものではなく、その言葉の下にある共有された前提の上に乗っている。前提がそろっていれば、短い言葉でも通じる。そろっていなければ、同じ単語が二人の頭の中で別の物を指す。
あの打ち合わせで欠けていたのは、語彙ではなかった。二人とも「リスク」という言葉は知っていた。欠けていたのは、その言葉が今この資材の中で何を指しているのか、という土台のすり合わせだった。私はノートの余白に小さく書いた。「同じ言葉で揉めたら、まず辞書を疑え。相手の辞書を」。
02一語の中に五つの中身がある
次の資材を見直しているとき、私は試しに、文中に出てくる「リスク」を片端から鉛筆で囲んでみた。一つの資料の中だけで、何度も出てくる。そして囲んでいくうちに、同じ字なのに指しているものが少しずつずれていることに気づいた。一語のように見えて、中身は一つではなかった。
切り分けてみると、おおよそ五つになった。
起こりやすさ×重さ
悪いことが起きる確率に、起きたときの被害の大きさを掛けた見積もり。工学や安全管理で使う「リスク」はだいたいこれ。「めったに起きないが起きたら致命的」を一つの数で表そうとする。
結果のばらつき
良くも悪くも、結果がどれだけ振れるか。金融で「ハイリスク」と言うとき、これを指すことが多い。損だけでなく、上振れの幅もリスクに数える。日常感覚とずれる用法。
危険の源そのもの
「その薬は肝臓にリスクがある」のように、害をもたらす元そのもの(=危ない物・要因)を直接そう呼ぶ使い方。確率ではなく、危ない物・要因そのものを指している。
悪い結果が起きる見込み
疫学(=病気の起こり方を集団で調べる学問)で「喫煙は肺がんのリスクを上げる」と言うときの「リスク」。ある集団で悪い結果が出る割合や、その上がり下がりを指す。
主観的な怖さ
数字ではなく、人が感じる不安の度合い。同じ確率でも、自分で選んだ危険は小さく、押しつけられた危険は大きく感じる。日常で「リスクが高い」と口にするとき、半分はこれ。
あの差し戻しの打ち合わせを、この五つで読み直すと景色が変わる。私が言った「リスクが高い」は④に近かった。誤読が広がって悪い結果が出る見込みを指していたからだ。だが相手が言った「リスクが高い」は、同じ④ではなかった。情報が届かないことで患者が不利益をこうむる、その重さと起こりやすさをまとめた①に近い見方だった。私は④の引き出しから、相手は①の引き出しから、同じ三文字を取り出していた。指している被害も、数え方も違う。だから話がかみ合わなかった。
言葉の側に決まりがないわけではない。国際的な取り決めにISO 31000(=組織がリスクをどう扱うかをまとめた国際規格)があり、そこでリスクは「目的に対する不確実性の影響」と一行で定められている。よく練られた定義だと思う。だが現場で人が口にする「リスク」は、この一行にきれいに収まってくれない。ある人は確率を、ある人は怖さを、ある人は危険の源そのものを、同じ三文字に詰め込む。
定義が一つに決まっていることと、人々の頭の中で意味が一つにそろっていることは、別の話だ。規格が一行で書けるからこそ、私たちは「もう共有できている」と錯覚する。混乱の根は、言葉が足りないことではなく、一つの言葉に中身が詰まりすぎていることにある。私は資材を見るとき、「リスク」の字を見つけたら、これは五つのどれだろう、と一度立ち止まることにした。囲んで、番号を振る。それだけで、すれ違いの半分は会議の前に消える。
03確率が同じでも、怖さが同じとは限らない
ある資材の片すみに、ごく低い確率の副作用が一行だけ書かれていた。数字でいえば、何千人に一人あるかないか。私はそのまま通そうとしたのだが、作り手がその一文を前にして、はっきり顔をこわばらせた。「この書き方だと、読んだ先生が必要以上に身構えてしまう」。確率はほとんどゼロに近い。それでも、その人にとっては数字の小ささが安心にはつながっていなかった。私はそのとき、同じ一文を、自分は確率で読み、相手は怖さで読んでいるのだと気づいた。
この食い違いを、数字としてとらえた研究者がいる。ポール・スロヴィック(=リスクの感じ方を心理学で測った米国の研究者)は、人が危険をどう大きく感じるかを大勢に尋ねて整理した。すると、感じ方を動かすのは事故の起こりやすさだけではなかった。二つの軸が強く効いていた。一つは怖さ(dread=制御できない、逃げられない、まとめて大勢が傷つく、という感覚)。もう一つは未知性(=仕組みが分からない、目に見えない、効き目が後から出る、という感覚)。この二つが高いものほど、確率が同じでも人は危険を大きく見積もる。原子力を自動車事故より「怖い」と感じる人は多い。だが理由は死者の数ではなく、この二つの軸にある。スロヴィックはそう見立てた。
あの副作用の一文も、まさにそこに当たっていた。起こる確率は低い。けれど「自分では防ぎようがない」「気づいたときには進んでいる」という感じが、未知性と怖さの両方を押し上げる。担当者が身構えたのは、計算違いではなく、人が本来そう感じるようにできているからだった。
怖さ(dread)
自分でコントロールできない、逃げられない、いちどに多くの人が巻き込まれる——そう感じるほど、同じ確率でも危険を大きく見積もる。
未知性
仕組みが見えない、目に見えない、影響が後から出てくる。分からなさそのものが、危険の感じ方を底上げする。
好き嫌いの先行
その薬や手段への好き嫌いが先に立ち、後から危険の見積もりがそれに引きずられる。
三つめの好き嫌いには、別の名前がついている。感情ヒューリスティック(=好きか嫌いかの第一印象が、危険か安全かの判断を先回りして動かす近道のこと)。ある手段を「好ましい」と感じると、人はその危険を低く、利点を高く見積もる。逆もまた起きる。つまり、危険の見積もりは冷たい計算の結果ではなく、最初の感じに後から理屈が追いついてくる。担当者がその一文を嫌ったのも、半分はこの第一印象だったのだと思う。
ここで私が学んだのは、こういうことだ。確率を正しく書けば伝わる、というのは作り手の思い込みであり、同時に審査する私の思い込みでもあった。同じ「リスク」という言葉を、私は何分のいくつとして読み、相手は身のすくむ感覚として読んでいた。どちらが間違っているのでもない。一語が指すものが、最初から二つに割れていた。そのことに気づかないまま数字の正しさだけを押し通せば、相手は黙って引き下がるか、別のところで折れる。ずれの一つ目は、ここにある。
04何を起点に損と数えるかが、ずれている
同じ修正案をはさんで、机の両側で正反対の結論が出ることがある。ある資材に、私は赤を入れた。表現を一段控えめにし、条件を一行足す。私の頭の中では、これは損を防ぐ仕事だった。直さないまま世に出れば、行き過ぎた説明を信じた先生が、合わない患者に使ってしまうかもしれない。その損は取り返しがつかない。だから直す。
ところが作り手は、同じ赤を見て別の損を数えていた。控えめにした分、本当に届けたい情報が薄まる。条件を足したことで、刷り直しと差し替えの手間が増える。とくに校了直前の差し替えは、再校と印刷の日程をまるごと後ろへ押し戻し、MRが現場にその資材を配れるのが次の配布のサイクルまで遅れてしまう。彼らにとっては、それこそが避けたい損だった。どちらも損を避けようとしている。なのに、出てくる答えは逆を向く。私は「直す」、相手は「直さない」。善し悪しの問題ではなく、何を起点に損を数えているかが、はじめから違っていた。
この食い違いを言葉にしたのが、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキー(=判断のかたよりを実験で示した心理学者の二人)だ。彼らのプロスペクト理論(=人が損と得をどう感じ分けるかを描いた考え方)には、ここに効く道具が三つある。
- 損失回避(=同じ大きさなら、得する喜びより損する痛みのほうを二倍ほど強く感じること)。だから両者とも、得を取りにいくより損を避けにいく。守りに入る方向は同じなのに、守るものが違う。
- 言い方の効果(framing=同じ事実でも、得として言うか損として言うかで選び方が変わること)。「百人中九十人が問題なく使えた」と「百人中十人に合わなかった」は同じ中身だが、受け取る怖さがまるで違う。私の赤入れ一文も、どちらの言い方を選ぶかで相手の反応が変わった。
- 参照点(reference point=損か得かを数える起点。ここを境に、上なら得、下なら損に見える)。私の起点は「正しい資材が出回っている状態」、相手の起点は「いま手元にある完成原稿」。起点がずれれば、同じ赤入れが、一方には損の回避に、もう一方には手にしたものを削られる損に見える。
三つめの参照点が、いちばん根が深い。同じ一文の修正が、起点の置き方ひとつで利得にも損失にも姿を変える。私が「ここを直せば安全側に戻る」と思っている同じ操作を、相手は「いま完成しているものから何かを引かれる」と感じている。引かれる、と感じた瞬間、損失回避が働いて抵抗が強くなる。私が示したいのは安全への一歩で、相手が感じているのは持ち物が減る痛みだ。同じ赤ペンの一画が、机の両側で別のものを指していた。
だから私は、赤を入れるときに一言そえるようになった。「これは削るためではなく、後で別の損を負わないための足し算です」。起点をそろえる、たったそれだけのことだ。けれど、起点が合わない限り、どれだけ丁寧に直しても、相手には自分の手柄を削られているようにしか見えない。「リスク」という一語のずれの二つ目は、確率でも怖さでもなく、何を出発点に損を数えるか、というところに潜んでいた。
05思い出しやすい失敗ほど、大きく見える
先月、ある資材で「副作用はほとんどありません」という一文を見つけて、私はその場で大きく赤を入れた。データの裏づけがないまま程度を断言していたからだ。作り手とのやり取りは長引き、最後は気まずい空気のまま差し戻した。それ以来、私は「ほとんど」「まれに」といった程度を表す言葉を見るたびに、肩に力が入るようになった。同じ種類の表現が出てくると、まだ中身を読む前から「これは危ない」と身構えている自分がいる。
その身構えは、たいてい行きすぎている。冷静に数えれば、程度を表す言葉のほとんどは問題なく通っていた。なのに私の頭の中では、あの一件だけが大写しになって、「この手の表現はよく揉める」という感触をつくっていた。実際にどれくらい起きたかではなく、思い出しやすさが私の危険の見積もりを押し上げていたのだ。
これを言葉にしたのが、心理学者のエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンだ。二人は利用可能性ヒューリスティック(=思い出しやすい出来事ほど、実際よりも起こりやすいと感じてしまう心のクセ)を示した。飛行機事故の報道を見た直後に飛行機を怖く感じるのと同じで、強い記憶が一つあるだけで、人はその種の出来事の確率を高く見積もる。記憶の鮮やかさが、起こりやすさの感覚にすり替わる。
やっかいなのは、作り手と私とで覚えている失敗が違うことだ。私は「程度を断言して揉めた一件」を鮮明に覚えている。一方で作り手は、別の資材で「効能の書き方が回りくどくて何度も直された」一件を引きずっているかもしれない。同じ資材を前にしても、二人はそれぞれ別の地雷を踏むまいと身構えている。私が程度の言葉に神経を尖らせている横で、作り手は言い回しの細かさを気にしている。危険の見積もりがずれるのは、能力の差ではなく、記憶の中身の差だ。
だから私は、自分の身構えを一度疑うことにしている。「危ない」と感じたとき、それが目の前のデータから来た判断なのか、それとも先月の一件の残響なのかを分けて考える。手元の確認記録を見返して、その表現が過去にどれくらいの割合で本当に問題になったかを確かめる。印象ではなく、数えた事実に判断を戻す。そうすると、力みすぎていた箇所がいくつも見つかる。
06%で書くか、100人中何人で書くか
同じ資材の同じ副作用を、二通りで書ける。「5%に出る」と書くか、「100人中5人」と書くか。数としてはまったく同じだ。けれど読む人の感じ方は、はっきり変わる。私が確認していて何度も思うのは、%の表記は、賢そうに見えて伝わっていないことだ。「5%」と書かれても、それが自分の外来でどれくらいの患者にあたるのか、姿が浮かばないまま読み飛ばされる。とくに率が小さいとき、たとえば「0.1%」になると、頭の中で人数に戻すのが急に難しくなる。「5%に起き、そのうち20%が重い」と二つの率が重なると、熟練者でも誤読しやすい。怠けているのではない。そもそも私たちは、ぼんやりした数字を生身の人数に置きなおすのが苦手にできている。
心理学者のゲルト・ギーゲレンツァーは、この受け取りの差を調べた。彼は確率(%)よりも自然頻度(=「100人中5人」のように、実際の人数で示す書き方)のほうが、人は正しく理解できると示した。%は割り算の結果で、頭の中でもう一度人数に戻す手間がいる。その戻し算の途中で、人は取り違える。「100人中5人」なら、その手間がいらない。書き方を変えるだけで、計算しなくても意味が届く。
もう一つ、私が差し戻しの火種だと感じているのが、数字が分からない危険の書き方だ。人は、確率が分かっている危険より、確率が分からない危険を強く嫌う。ダニエル・エルズバーグ(=不確かなものへの人の態度を実験で調べた、意思決定の研究者)はこれを実験で示した。確率が分かっている賭けより、分からない賭けのほうを人は避けたがる。これを曖昧さの回避と呼ぶ。中身がはっきり見える壺からくじを引くほうを、人は、中身の割合が分からない壺より好む。当たる見込みが同じでも、分からないこと自体が嫌われる。
| 書き方 | 読み手の頭の中 | 差し戻しの起きやすさ |
|---|---|---|
| 発現率5% | 「100人中何人?」と戻し算が要る | 取り違えから問い合わせ・修正 |
| 100人中5人 | 数え直さずそのまま分かる | 低い |
| まれに起こる(数値なし) | どれくらいか分からず不安になる | 曖昧さを嫌われ高い |
だから私は、資材に程度を表す言葉だけがあって数字がないとき、必ず立ち止まる。「まれに」「ときに」は、人によって思い浮かべる人数がまるで違う。ある人は1000人に1人を、別の人は100人に10人を想像する。その幅が、後で「聞いていた話と違う」という不満になる。私が作り手に頼むのは、分かっている数字は人数の形で出す、分からないなら分からないと正直に書き添えること。隠された曖昧さがいちばん嫌われる。はっきり「ここはまだ十分なデータがない」と書いてあるほうが、読み手は落ち着いて受け止められる。
ただし、緩めるのはあくまで表現の力みのほうだ。データの裏づけがないのに「ほとんどない」と言い切る断定や、人によって読み方が割れる程度の言葉を、書き方の話だからと見逃してよいわけではない。そこを通せば、誤って大きく伝わる資材が世に出る。力みは下ろしても、根拠の薄い断定とあいまいな程度語への目は下ろさない。この線だけは動かさない。
07立場が違っても、話が通じる前提をつくる
同じ資材を見ても、私と作り手が大きく見ている危険はずれている。説明会で何度も気づかされる。私は「この表現だと、効きすぎる薬だと受け取られないか」を真っ先に気にする。作り手は「ここを削ると、患者に届く大事な情報が落ちてしまわないか」を先に心配する。どちらも本気で患者のことを思っている。なのに、心配している中身が違う。
なぜ同じ場所に立てないのか。文化人類学者のメアリー・ダグラス(=人がものごとを「きれい/危ない」とどう分けるかを集団の文化から読み解いた研究者)は、人は自分が属する集団の物の見方に合う危険を、実際より大きく見る、と書いた。法学者のダン・ケイハンはこれを今の言葉で測りなおし、文化的認知(=自分の仲間うちの価値観に合う危険ほど大きく感じる心の癖)と名づけた。同じ事実を見せても、人は自分の立場が困る話を強く受け取り、立場が得をする話は軽く見る。データの読み方が、立場で曲がる。
これを資材の現場に置きかえると、よく分かる。審査する側の私は「外に出した後でとがめられたら困る」という場所に立っている。だから過大に伝わる危険を大きく見る。作り手は「現場の医師や患者に必要な情報が届かなかったら困る」という場所に立っている。だから情報が足りなくなる危険を大きく見る。二人とも怠けているのではない。立っている場所が、見える危険を選んでいる。
審査する側が大きく見る危険
言いすぎ・効きすぎに見える表現。承認の範囲をはみ出す説明。後で「誇大広告だ」と指摘される危険(=薬機法66条が禁じる、効果を実際より大きく見せる広告だととがめられること)。だから言葉を絞る方へ傾く。
作り手が大きく見る危険
削りすぎて、現場が判断に必要な情報を持てないこと。慎重すぎて、本当は届けるべき有効性が伝わらないこと。だから情報を残す方へ傾く。
共通して小さく見てしまう危険
相手が大きく見ている危険を、つい軽く見る。自分の立場が困らない側のリスクは、データを見ても素通りしやすい。ここが盲点になる。
困るのは、この食い違いが「リスク」という一語の中に隠れてしまうことだ。私が「ここはリスクが高い」と言うとき、私は過大に伝わる危険を指している。作り手が「いや、削る方がリスクが高い」と返すとき、その人は情報が足りなくなる危険を指している。同じ言葉で、別のものを指したまま、押し合っている。声を荒げているわけではないのに、話がかみ合わない。
ここで効くのが、言葉のやりとりを研究した心理学者ハーバート・クラークの考えだ。彼は、会話が成り立つのは話す二人が「今、何の話をしているか」を共有しているからだと言い、その共有された土台を共通基盤(=二人が同じものを指していると確かめ合えている状態)と呼んだ。ずれたら、その都度ことばで確かめ直す。クラークは、人は会話の中で絶えずこの確かめ直しをしている、と観察した。私たちの説明会に足りないのは、まさにこの一手間だった。
| 確かめ直す前 | 確かめ直した後 | |
|---|---|---|
| 「リスク」の中身 | 各自が別の危険を指したまま | 「どちらのリスクの話か」を口に出して一致 |
| 議論の感触 | 正しさの言い合いになる | 同じ的を二人で見られる |
| 結論 | 声の大きい方・立場の強い方に寄る | 両方の危険を並べて重さを比べられる |
だから私は、説明会の最初にこう言うようにした。「今から話すのは、効きすぎに見える危険の話です。情報が足りなくなる危険の話は、その後で別に取りましょう」。たったこれだけで、空気が変わる。相手は身構えるのをやめ、私も自分の盲点を出しやすくなる。文化的認知は消せない。立場が見せる危険の偏りは、人である限りついて回る。消せないなら、まず「今どの意味のリスクを話しているか」を声に出して合わせる。それが、立場の違う二人が同じ的を見るための、現場でいちばん効く一手だった。
この連載で見てきたことが、ここでつながる。初めのほうの回では、実際に起きた資材の逸脱事例を並べ、小さな言葉のずれが大きな誤解の入り口になることを見た。第13回では、審査する側と作り手は対立する二人ではなく、同じリスクへ並んで立つ仲間だと書いた。第14回では、危ない兆しに早く気づく力を扱った。そして今回。気づいた危険を二人で話すとき、まず「どの意味のリスクか」を合わせる。並び立ち、気づき、言葉を合わせる。この三つがそろって初めて、立場が違っても話が通じる。同じ言葉で別のものを指していないか。それを最初に確かめることから、いつも始めている。
- 「リスク」という一語には、起こりやすさ×重さ、結果のばらつき、危険の源そのもの、悪い結果が起きる見込み、主観的な怖さ、と少なくとも五つの中身がある。揉めたら、まず相手がどの中身で使っているかを確かめる。
- 同じ言葉が割れるのは、確率と怖さ、損を数える起点、覚えている失敗、そして立っている場所が、人それぞれ違うからだ。能力の差ではなく、見ている景色の差として扱う。
- %は人数の形に直し、分からない数字は隠さず正直に書く。そのうえで、表現の力みは緩めても、根拠の薄い断定とあいまいな程度語への目は緩めない。書き方を変えるだけで、内容を薄めずに誤解だけを削れる。
- Slovic, P. Perception of Risk. Science, 236, 280-285, 1987.(危険の感じ方を測った研究)
- Slovic, P., Finucane, M., Peters, E., & MacGregor, D. The Affect Heuristic. European Journal of Operational Research, 177, 1333-1352, 2007.(好き嫌いが判断を先回りする話)
- Kahneman, D., & Tversky, A. Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk. Econometrica, 47, 263-291, 1979.(損と得の感じ分けを描いた理論)
- Tversky, A., & Kahneman, D. The Framing of Decisions and the Psychology of Choice. Science, 211, 453-458, 1981.(言い方ひとつで選択が変わる話)
- Tversky, A., & Kahneman, D. Availability: A Heuristic for Judging Frequency and Probability. Cognitive Psychology, 5, 207-232, 1973.(思い出しやすさが確率感覚にすり替わる話)
- Gigerenzer, G., & Hoffrage, U. How to Improve Bayesian Reasoning Without Instruction: Frequency Formats. Psychological Review, 102, 684-704, 1995.(人数の形なら正しく伝わるという話)
- Ellsberg, D. Risk, Ambiguity, and the Savage Axioms. Quarterly Journal of Economics, 75, 643-669, 1961.(分からないこと自体が嫌われる話)
- Douglas, M., & Wildavsky, A. Risk and Culture. University of California Press, 1982.(危険の見方が集団の文化で決まる話)
- Kahan, D. M. Cultural Cognition as a Conception of the Cultural Theory of Risk. In Handbook of Risk Theory, Springer, 2012.(立場が危険の見積もりを曲げる話)
- Clark, H. H. Using Language. Cambridge University Press, 1996.(会話が共通の土台の上に乗るという話)
- International Organization for Standardization. ISO 31000:2018, Risk management — Guidelines. 2018.(リスクを一行で定めた国際規格)