「品位を欠く」と審査コメントに書きかけて、手が止まった。品位とは何か。長年使ってきた言葉なのに、問われると答えに詰まる。哲学と学習科学の知見を借りて、この掴みどころのない二語を掴み直し、感覚を持たない人への渡し方まで考えてみた。

01「品位を欠く」と書きかけて、手が止まった

金曜の夕方だった。審査室の机の上に、承認待ちの資材(=医薬品の説明に使うパンフレットやスライド)が一件だけ残っていた。競合品との比較グラフが目に飛び込んでくる。自社品の棒だけが濃い赤で、天井を突き破りそうな勢いで伸びている。数値そのものは引用元の論文と合っている。誇大とまでは言い切れない。それでも、何かが過剰だった。私はコメント欄に「品位を欠くおそれがあるため——」と書きかけて、手が止まった。

止まった理由は、疲れではない。ふと自問してしまったからだ。私はいま書こうとしている「品位」という言葉の中身を、相手に説明できるのか。誇大広告なら薬機法66条(=医薬品の効能について嘘や大げさな表現を禁じる条文)を示せる。未承認の効能なら68条を引ける。条文には番号があり、通知があり、過去の指摘事例がある。だが「品位」には、それがない。どこまでが品位のある表現で、どこからが品位を欠くのか。判定基準表は、私の机のどの引き出しにも入っていない。

思い返せば、私はこの言葉を何百回も使ってきた。「この色使いは品位に欠けます」「もう少し品位のあるトーンに」。言われた側の担当者は、たいてい黙って頷いた。頷きながら、内心では「あなたの好みでしょう」と思っていたかもしれない。そう思われても、反論できるだけの中身を私は持っていただろうか。長年使い込んで手に馴染んだはずの言葉の、その芯のところが空洞だったことに、使ってきた本人が気づく。これは居心地が悪い。

結局その日、私はコメントを書き上げずに帰った。「品位を欠く」と書くのは簡単だ。だが、来月から審査を引き継ぐ後輩に「品位って何ですか」と聞かれたら、私は何と答えるのか。この随筆は、その問いに言葉を詰まらせた一人の審査員が、詰まったまま考えた記録である。

02コードの冒頭にあるのに、定義がどこにもない

帰りの電車で、鞄から製薬協コード・オブ・プラクティス(=製薬企業が自主的に定めた行動規準。法律ではないが、業界全体が守ると約束した文書)を取り出した。何かの手がかりが冒頭にあるはずだと思った。実際、あった。前文から「倫理」「品位」という言葉が繰り返し現れる。医療用医薬品の販売情報提供活動は品位を保って行うこと。企業活動は高い倫理性のもとに。何度も出てくる。ところが、巻末の用語集までめくっても、「品位とは何か」を定めた定義条項が、どこにもない

最初は欠陥だと思った。文書の一番大事な言葉を定義し忘れるとは、ずいぶんいいかげんではないかと。だが窓の外の景色を眺めているうちに、別の仮説が浮かんだ。定義し忘れたのではなく、定義できない種類の言葉なのではないか。定義しようとすると、かえって壊れてしまう言葉が、世の中にはあるのだと思い至った。

イギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズが「厚い倫理的概念」と呼んだものがある。事実の記述と価値の評価が、一つの言葉の中で分かちがたく混ざり合った概念のことだ。たとえば「残酷」。誰かを「残酷だ」と言うとき、私たちは「相手を傷つける行為をした」という事実の描写と、「それは悪い」という評価を、同時に、一語で行っている。「誠実」も同じだ。事実と評価を切り分けて別々に定義することが、そもそもできない。ウィリアムズは、こうした言葉の意味は辞書ではなく、その言葉が実際に使われる共同体の暮らしの中にしか存在しない、と考えた。

「品位」は、まさにこの厚い概念だ。あの赤いグラフを見て「品位を欠く」と感じたとき、私の中では「棒の色と縮尺が視覚的に誇張されている」という事実の認識と、「それは資材としてふさわしくない」という評価が、切り分けられないまま一度に立ち上がっていた。だから定義条項が書けない。書けば、事実の部分だけが基準表になり、評価の芯が抜け落ちる。暗記では使えず、使われる場面を何度もくぐることでしか身につかない言葉。コードを書いた人たちは、それを知っていて、あえて定義せずに冒頭に置いたのかもしれない。

そう考えると、金曜の夕方の私の立ち往生は、少し違って見えてくる。私は「定義を知らない」から詰まったのではない。定義できないものを、それでも後輩に渡さなければならない。その渡し方が分からないから詰まったのだ。問いはここから始まる。

03抽象語をやめて、相手の顔で言い直してみる

週末、家の机で一枚の資材を広げてみた。金曜に判断を保留にした、あの一枚だ。規定違反はない。誇大でもない。それでも何かが引っかかる。「品位に欠ける気がする」。そう書きかけて、手が止まった。この一言では、月曜に作成者へ何も渡せない。品位という言葉は便利すぎて、中身が空のまま通用してしまう。

そこで、言葉を変える練習をしてみた。抽象語を捨てて、資材の向こうにいる人の顔で言い直すのだ。「この見出しを待合室で目にした患者さんは、この薬に何を期待してしまうか」。「外来の合間に30秒だけ目を通す医師は、この一枚から何を読み取り、何を読み落とすか」。「不安の中で治療を選ぼうとしている家族は、この写真の笑顔をどう受け取るか」。問いを具体的な人に向けた途端、引っかかりの正体が形を持ちはじめた。この資材は嘘をついていない。ただ、読み手の弱さに寄りかかっている。それが引っかかりの中身だった。

哲学者のマーク・ジョンソンは、倫理の中心にあるのは規則の適用ではなく道徳的想像力(=自分の行いが相手の生活に何を起こすかを、具体的に思い描く力)だと論じた。正しい規則を機械的に当てはめる人より、相手の暮らしの中でその行為がどう働くかを想像できる人のほうが、結果として倫理的にふるまえる、という見方だ。品位の判断が、規定の条文だけでは説明しきれないのは、それが規則の問題ではなく想像の問題だからだ、と考えると腑に落ちる。

日曜の夜、私は自分なりの言い直しに辿り着いた。品位とは、資材の飾りや格調のことではない。資材の向こうにいる人への扱い方のことだ。読み手を、説得の対象としてではなく、自分で考えて選ぶ一人の人として扱っているか。その扱い方が紙面ににじみ出たもの。それを私たちは品位と呼んでいる、と言い直せた。この言い直しなら、月曜に相談席で渡せる。渡せる言葉になったということは、私自身がようやく掴めたということでもあった。

04正論は、なぜ相手に届かないのか

月曜の相談席で、さっそくつまずいた。若手の資材作成者に「この表現は、品位の点で見直してほしい」と伝えたら、返ってきたのは「規定のどこに書いてありますか」だった。悪意のある切り返しではない。彼は本気で根拠を求めている。私は週末に用意した言い直しを添え、理屈を重ねた。読み手への扱い方の話であること。規定は最低線であって、その上に判断の余地があること。話せば話すほど、彼の表情が硬くなっていくのが分かった。正しいことを言っているはずなのに、届いていない。

帰り道、18世紀の哲学者ヒュームの言葉を思い出した。「理性は情念の奴隷である」。人を動かすのは理屈そのものではなく、心の動き(情念)のほうで、理性はその後から仕えるものだ、という指摘だ。心理学者のジョナサン・ハイトは、このヒュームの見方を現代心理学の側から引き継ぎ、社会的直観モデル(=倫理の判断はまず直観が瞬時に動き、理屈はその判断を正当化するために後からついてくる、という説明の枠組み)として整理した。人は理屈で結論に達するのではなく、先に「感じ」、それから理由を探す傾向がある。

これを「だから説得は無駄だ」と読むのは間違いだと思う。理屈が無力なのではない。直観がまだ動いていない相手に、理屈だけを渡しても入らない。順序の問題なのだ。彼の中では「規定を守った資材は正しい資材だ」という直観がすでに動いている。そこへ私が別の理屈をぶつけても、彼の直観は自分の側の理由を探すだけで、表情が硬くなるのは当然だった。私の失敗は、論の中身ではなく、論を渡す順番にあった。

渡し方相手の中で起きること結果
正論を重ねる既存の直観が防御に回り、反論の理由を探す表情が硬くなる。議論が平行線になる
先に直観を動かす(読み手の顔を一緒に想像する)「たしかに患者さんはそう読むかも」という感覚が先に立つ理屈が、その感覚の言語化として受け取られる

翌日、私はやり方を変えた。規定の話も品位の話もいったん脇に置き、「この見出し、待合室で読む患者さんはどう受け取ると思う?」とだけ聞いた。彼は少し黙ってから、「……効くと約束された、と思うかもしれません」と言った。直観が動いた瞬間だった。そこで初めて、週末の言い直しを渡した。理屈は同じでも、届き方がまるで違った。正論は、相手の直観が動いた後でなら、ちゃんと働く。私が学んだのは、そういう順序のことだ。

05私は誰から品位を学んだのか。語る人ではなく、迷う人から

記憶を遡ってみる。品位という言葉を最初に教わったのは、たしか入社研修だった。けれど、そこで聞いた定義を私はひとつも覚えていない。覚えているのは、昔の上司の背中だ。机の上に一枚の資材があり、その中の一文は、競合品との比較をデータの許す範囲ぎりぎりで強く見せていた。売上に効くとわかっている。その一文を前に、その人は長く黙った。ペンを持ったまま、二分か三分。それから小さく「患者さんが読んだら、どう受け取るかな」と呟いて、赤を入れた。営業部から電話が来るとわかっていて、それでも入れた。

あのとき私が見たのは、答えではなく迷いだった。規定に照らせば通せる余地はある。数字の裏付けもある。それでも通さない判断を、目の前で下す人がいた。品位とは何かを語られた記憶より、品位が試される瞬間に人がどう振る舞うかを見た記憶のほうが、私の中に深く残っている。

心理学者のアルバート・バンデューラは、これを観察学習(=人は言葉で教わるより、他人の振る舞いを見て学ぶこと)と呼んだ。とくにモデリング(=尊敬する人を手本として、その判断の仕方ごと取り込むこと)は、価値観の伝達で大きな力を持つ。バンデューラの実験で子どもたちが学んだのは、大人の「説明」ではなく「行動」だった。大人が攻撃的に振る舞えば子どもも攻撃的になり、穏やかな大人を見た子どもは攻撃を控えた。語られた規範より、目撃された規範のほうが強い。

ここに、私にとっての転回点がある。品位を渡したいなら、品位について語る時間を増やすのではない。判断の現場を見せるのだ。私が黙って考え込む姿、通したい気持ちと通せない理由のあいだで迷う姿、それを若い人の目に触れる場所でやる。かっこ悪い迷いこそが、いちばん雄弁な教材だった。あの上司は、たぶんそれを知っていて黙っていたわけではない。ただ本気で迷っていた。本気の迷いは、演技では出せない。だから伝わったのだと、いまは思う。

06研修は届かず、同席は届く

毎年の倫理研修のアンケートは、いつも好評だ。「勉強になった」「意識が変わった」。けれど翌月に上がってくる資材を見ると、変わっていない。強調したい数字は相変わらず大きく、注意書きは相変わらず小さい。研修の満足度と資材の質は、私の観察するかぎり、ほとんど連動しない。

一方で、確実に変わる人たちがいる。審査の席に同席を続けた作成者だ。最初の一、二ヶ月は黙って座っているだけ。三ヶ月目あたりから「これは引っかかりますか」と聞くようになり、半年たつ頃には、自分の資材を出す前に「この表現、患者さんに誤解を与えませんか」と自分から言い出す。誰も台詞を教えていないのに、である。

この差の説明として、私がいちばん腑に落ちたのは、人類学者のジーン・レイヴと教育理論家のエティエンヌ・ウェンガーが唱えた正統的周辺参加(=新参者が、共同体の実践の端っこに正式な一員として加わりながら、やり方と価値観をまるごと身につけていくこと)という考え方だ。彼らが調べた仕立屋や産婆の徒弟は、講義を受けて一人前になったのではない。現場の隅で雑用をしながら、先輩たちが何に時間をかけ、何を恥じ、何を譲らないかを浴びるように見て、徐々に中心へ移っていった。学びの単位は知識ではなく、参加だった。

倫理研修審査への同席
学ぶもの規範の知識(何が正しいか)判断の実践(現場でどう迷い、どう決めるか)
学び手の立場聴衆(外から眺める)共同体の周辺メンバー(内側に足を置く)
身につく形言える(テストには答えられる)やれる(自分の資材で先回りできる)
持続数週間で薄れやすい仕事の型として残る

研修が届かないのは、内容が悪いからではない。倫理が知識の形で渡されるかぎり、それは「言える」で止まる。同席が届くのは、審査という実践の共同体に足を半分入れるからだ。私たちが一つの表現に十五分かけるのを見る。営業部との電話で譲る点と譲らない点を聞き分ける。そのうちに、判断の基準ではなく判断の構えが移っていく。品位は教えるものではなく、うつるものだった。だとすれば、審査の席は閉じた密室であってはいけない。私にできるのは、扉を開けて、隣に椅子を一つ置くこと。その椅子に来月、誰が座ってくれるのかは、まだ分からない。

07定義ではなく、二つの実例を並べて渡す

次に若手が相談に来たとき、私は定義を語るのをやめた。代わりに、古い資材を二つ机に並べた。ひとつは、数年前に社内で差し戻しになった説明資材。データは正しいのに、有効性のグラフだけを大きく載せ、副作用の記載は最後のページの小さな文字に押し込んであった。もうひとつは、同じ領域の別の資材で、効果の限界と「効かない患者もいる」という事実を本文の真ん中に、逃げずに書いてあったもの。私は「どちらも規程には違反していない。でも、違いはどこにあると思う」とだけ聞いた。

若手はしばらく黙って二つを見比べ、やがて「こっちは、読む人を説得しようとしていて、こっちは、読む人に判断させようとしています」と言った。私が何週間も探していた言葉より、ずっと正確だった。自分の言葉で違いを言えた瞬間、掴めなかった概念が相手の中で動き始める。定義を暗記させても、この動きは起きない。

あとで知ったのだが、このやり方には古い名前がある。決疑論(casuistry=抽象的な原則から答えを導くのではなく、個別の事例どうしを比べて判断を導く伝統)という。中世の聖職者が告解(=罪の相談)に答えるために磨いた方法で、哲学者のジョンセンとトゥールミンは『決疑論の濫用』(1988年)でこれを再評価した。彼らの主張は単純だ。人は原則から個別へ降りるのが苦手で、はっきりした事例から曖昧な事例へ横に歩くほうが得意だ、という。医療倫理の現場判断も、実際にはこの横歩きで動いている。

教育研究でも同じ知見がある。認知科学者のジェントナーらは、二つの事例を並べて比較させると、一つずつ順に見せるより構造が抜き出されやすいことを示した(比較による構造の抽出=比べることで共通の骨組みが見えてくる学習)。事例が一つだと、人は表面の細部を覚えて終わる。二つ並べると、細部が打ち消し合い、奥にある違いだけが浮かぶ。品位のように定義できない厚い概念は、こうやってしか渡らない。

私は先輩から品位という言葉の定義をもらったことは、結局一度もない。もらったのは、先輩が資材の前で立ち止まった場面の記憶だけだ。そして今、私が若手に渡せたのも、定義ではなく、良心が動く経験だった。あの「違いはどこにあると思う」という問いに自分で答えたとき、若手の中で何かが確かに動いた。徳目(=立派さの項目)の一覧表ではなく、動いた良心の手応え。それが次の誰かへ渡り、また次へ渡る。掴めない言葉は、この循環の中でだけ、生き続ける。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 「品位」は事実の記述と価値の評価が分けられない「厚い概念」(ウィリアムズ)。定義条項が書けないのは欠陥ではなく、この言葉の性質。抽象語のまま使わず、「資材の向こうにいる人への扱い方」として読み手の顔で言い直す。
  2. 倫理の判断は直観が先、理屈は後(ハイト)。正論を重ねる前に、「この見出しを患者さんはどう受け取るか」と問いかけて相手の直観を先に動かす。理屈は同じでも、渡す順序で届き方が変わる。
  3. 品位は講義では渡らない。迷う姿を見せること(観察学習)、審査の席への同席(正統的周辺参加)、二つの実例の並置比較。定義ではなく、良心が動く経験を渡す。
出典·参考文献
  1. Bernard Williams. Ethics and the Limits of Philosophy. Harvard University Press, 1985.(「厚い倫理的概念」の原典)
  2. Mark Johnson. Moral Imagination: Implications of Cognitive Science for Ethics. University of Chicago Press, 1993.(道徳的想像力の理論)
  3. Albert Bandura. Social Learning Theory. Prentice-Hall, 1977.(モデリング・観察学習の基本文献)
  4. Jean Lave, Etienne Wenger. Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation. Cambridge University Press, 1991.(実践共同体と正統的周辺参加)
  5. Jonathan Haidt. The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion. Pantheon Books, 2012.(社会的直観モデル)
  6. David Hume. A Treatise of Human Nature. Oxford University Press, 2000(原著1739-40).(「理性は情念の奴隷」の出典)
  7. Albert R. Jonsen, Stephen Toulmin. The Abuse of Casuistry: A History of Moral Reasoning. University of California Press, 1988.(決疑論=事例比較による倫理推論の復権)
  8. 日本製薬工業協会. 製薬協コード・オブ・プラクティス. 日本製薬工業協会, 2019年改定.(「倫理」「品位」を掲げる一次資料)
  9. Etienne Wenger. Communities of Practice: Learning, Meaning, and Identity. Cambridge University Press, 1998.(実践共同体論の展開)