資材審査の現場で毎日使う「正しい」「正しくない」という言葉を、言語哲学と法哲学の道具を借りて分解する回。誰にとっての正しさか、主張なのか助言なのか、そして正しさは何層でできているのか。審査員の言葉が信頼される条件を、審査室の具体的な場面から考える。

01「正しくない」と書いた日

新製品のパンフレットを審査していた日のことだ。副作用の記載が、効果を語るページから二枚めくった先に置かれていた。私は審査コメント欄に「この構成は正しくない」と書いて返した。担当者は黙って修正した。指摘は通り、資材は直り、仕事としてはそれで終わりのはずだった。

数日して、その担当者が席まで来て聞いた。「あれはルール違反だったんですか。それとも、個人のお考えですか」。私は即答できなかった。通知(=行政が出す実務上の指示文書)に「副作用は効果の隣に置け」と書いてあるわけではない。ならば私の考えか。しかし単なる好みで人の仕事を直させたと言われると、それも違う気がする。「正しくない」という五文字の足元が、聞かれてはじめて、ぐらついた。

思えば、審査の言葉が通るのは、内容が常に正しいからではない。「この人の言うことなら聞こう」と相手に思わせる信頼に支えられている部分が大きい。哲学ではこれを認識的権威(=知識についての権威。地位の力ではなく、知の信頼で人を動かす力)と呼ぶ。担当者が黙って直したのは、納得したからか、それとも私が審査員だったからか。後者だとしたら、私は根拠を示さないまま権威だけで人を動かしたことになる。

そこで、この稿では三つの問いを順に考えたい。

答えを先に言えば、どの問いにも一枚岩の答えはない。だが曖昧なまま「正しくない」と書き続けるのと、曖昧さの正体を知った上で書くのとでは、同じ五文字でも重さが違う。まずは一つ目の問い、「誰のための正しさか」から解剖を始める。

02椅子を替えると、正しさが変わる

手元に一枚のグラフがあるとする。新薬と従来薬の効果を比べた臨床試験(=実際の患者で効果と安全性を確かめる試験)の結果だ。私はときどき、このグラフを机に置いたまま、頭の中で座る椅子を替えてみる。同じ一枚が、椅子ごとに違って見えるからだ。

座る椅子その椅子から見た「正しい表現」気になる点
患者の椅子不安を煽らず、飲み続ける気持ちを支える表現数字の細部より、安心して治療に向かえるか
医師の椅子効果の限界と条件まで書き切った表現都合の悪いデータが省かれていないか
営業部の椅子競合品に見劣りしない、強みが伝わる表現弱く書きすぎて売り負けないか
行政の椅子通知の文言に一字一句沿った表現前例のない書き方をしていないか

不思議なのは、どの椅子から見た「正しさ」も、嘘ではないことだ。患者への配慮も、医師への誠実も、会社の事業も、当局の秩序も、それぞれ筋が通っている。それなのに、四つの正しさは同じ表現の上では両立しない。効果の限界まで書けば患者は不安になるかもしれず、安心を優先すれば医師には物足りない。

経済学者のアマルティア・セン(=インド出身のノーベル経済学賞受賞者。貧困と正義の研究で知られる)は、これをポジショナルな客観性(=その位置に立てば誰が見てもそう見える、という「位置つき」の客観性)と呼んだ。地上から見れば太陽と月は同じ大きさに見える。これは錯覚ではなく、地上という位置に立つ限り誰にとってもそう見える、位置つきの事実だ。センの考えはこうだ。客観性とは、どの椅子にも座らない神の視点のことではない。「私はこの椅子からこう見た」と位置を申告した上での見え方のことだ。患者の椅子から見た正しさも、医師の椅子から見た正しさも、位置の申告さえあれば、どちらも客観的でありうる。

ここまでなら思考実験として気持ちがいい。だが正直に言うと、私の審査室にはもう一脚、隠れた椅子がある。保身の椅子だ。「後で問題になったとき、自分が責められない表現」が正しく見える椅子である。厳しめに直させておけば、審査員は安全だ。この椅子は他の四脚と違って、座っていることを自分でも認めたがらない。あの日の「正しくない」に、この五脚目が混ざっていなかったか。センに倣うなら、まず申告すべきはこの椅子かもしれない。私はどの椅子からそれを言ったのか。その申告のない「正しくない」は、どこから見たかを言わないまま人を従わせる、誰の声か分からない言葉になる。

03同じ文が、命令として届いた

入社二年目の担当者に、私はこう伝えた。「このデータは主要評価項目(=その試験で一番の目的として最初に決めた評価の物差し)ではないので、削除を」。翌週、戻ってきた資材を見て言葉を失った。指摘した一箇所だけでなく、全ページから似た表現がきれいに消えていた。グラフの脚注も、参考データの欄も。私が残してよいと思っていた記載まで、根こそぎだった。

彼は青ざめた顔で言った。「他にも同じ問題があったらいけないと思って」。私は判断の材料をひとつ渡したつもりだった。しかし彼の耳には、それは命令として届いていた。文面は同じでも、届き方がまるで違う。私はしばらく、このずれの正体を考え続けた。

手がかりをくれたのは、イギリスの哲学者J.L.オースティンの発話行為論(=言葉を発することは、それ自体が「約束する」「命じる」などの行為だ、という言語哲学)だった。オースティンは、言葉は事実を述べるだけの道具ではないと考えた。「約束します」と言えば約束という行為が成立する。「命じます」と言えば命令が発生する。言うことは、することなのだ。弟子筋にあたるジョン・サールはこれを整理して、発話を「主張」「指図」「約束」などに分類した(=発話分類論。話し手が何を引き受けるかで言葉を分ける考え方)。主張なら、話し手は「それが本当であること」に責任を負う。命令なら、相手を動かした結果にまで責任が及ぶ。助言はその中間で、判断材料の質には責任を負うが、採否は相手に残る。

あの日の私の一言は、どれだったのか。私の中では主張と助言の間だった。「主要評価項目ではない」という事実の指摘と、「だから削除が妥当だろう」という見立て。しかし審査員と担当者という関係の中では、同じ文が指図として機能した。審査で通らなければ資材は世に出ない。その力の差のせいで、私の「〜ではない」は相手の耳に「〜を消せ」と聞こえていた。発話の性格を決めるのは文面だけではない。誰が、どの立場から言うかが、言葉の行為としての中身を変える。

私は判断材料を渡したのではなく、知らないうちに命令を発していた。そして命令として届いたのなら、全ページ一掃という過剰な対応の責任の一端は、命じた側の私にある。そう考えたとき、初めて彼の青ざめた顔の意味がわかった気がした。

04採るか採らないかは、あなたが決める

別の日、似たような場面がまた来た。今度は言い方を変えてみた。「削除が一案です。残すなら、根拠論文の限界(=その研究だけでは言い切れない部分)をどう補記するか、が論点になります」。数日後、担当者は第三の案を持ってきた。当該データを本文から外し、代わりに試験デザインの説明を一段丁寧にして、読み手が自分でデータの重みを測れるようにする案だった。正直に言えば、私の案より良かった。

何が違ったのか。前回は答えを渡し、今回は選択肢と論点を渡した。助言受容(advice taking。=人が他人の助言をどう受け入れるかを調べる心理学の分野)の研究に、手がかりがある。ボナッチオとダラルという二人の研究者が過去の実験を広くまとめたレビューでは、助言は強制ではなく選択の余地がある形で差し出されたとき、受け入れられやすい傾向が報告されている。あくまで傾向であって法則ではない。それでも現場の実感とはよく合う。人は、自分で選んだ判断には自分の頭を使う。押し付けられた判断には、頭を使う理由がない。

審査員が答えを独占しないことは、責任放棄ではない。むしろ逆で、相手の判断力への投資だと私は思うようになった。認識的権威は、命令の回数では育たない。渡した判断材料が的確だったという経験の積み重ね、つまり信頼から生まれる。命令で動かした相手は次も命令を待つ。材料で動いた相手は、次は自分で材料を探しに行く。

この区別を自分に課してから、指摘の言葉を選ぶ時間が少し長くなった。これは助言か、主張か。相手に選ばせてよい話か、選ばせてはいけない話か。発する前にひと呼吸置く。その一呼吸が、あの青ざめた顔を二度と見ないための、私なりの手当てである。

05間違えうる、と言える強さ

数年前に私が「問題なし」で通した表現が、通知の改定で不適切と整理されたことがある。改定後の基準で過去の資材を一つずつ見直していた後輩が、私の審査記録を見つけて持ってきた。コメント欄には、当時の私の字でこう書いてあった。「この表現は正しい。修正不要」。根拠の引用も、留保もない。ただの断定だった。改定を予見できなかったこと自体は、誰の落ち度でもない。私が恥ずかしかったのは、あの書き方だ。まるで時間が止まっているかのような「正しい」を、私は平気で書いていた。

以来、私はコメントに一つの限定を付けるようになった。「現時点の通知と手元の根拠に照らして、問題ないと判断する」。長ったらしいと言われたこともある。自信がないのかと聞かれたこともある。だが、これは自信の問題ではない。哲学に可謬主義(かびゅうしゅぎ。=どんな判断も誤りうる、という前提に立つ考え方)という立場がある。19世紀の哲学者パースが唱えたもので、後にポパーも別の角度から「反証可能性」(=間違いだと示せる形になっているか、という科学の条件)という近い考えを打ち出した。ポパーの考えは単純で、「絶対に間違わない」と主張する言明は、検証のしようがないぶん、実は一番弱い。誤りうると認めた言明だけが、テストされ、修正され、生き残っていく。

審査コメントに置き換えると、こうなる。「この表現は正しい」は、いつ・何に照らして正しいのかを示していないので、通知が変わった瞬間に丸ごと崩れる。崩れた後、なぜそう判断したのかを誰も再構成できない。一方「現時点の通知Aの第3項と、添付文書(=医薬品ごとの公式な使用上の注意文書)の記載に照らして問題ない」と書いたコメントは、通知Aが改定されれば「どこを見直せばよいか」が自動的に分かる。判断の賞味期限と、点検の入口を、コメント自身が持っている。

断定を弱めることは、判断を弱めることではない。むしろ逆だと思う。反証の窓(=あとから「ここが違った」と指摘できる入口)を開けたまま差し出された判断は、時間が経っても使い道が残る。窓を閉めた断定は、当たっている間だけ立派で、外れた瞬間にただの遺物になる。後輩が持ってきたあの審査記録は、私にとってその見本だった。今の私は、訂正されうる形で書くことを、審査員の弱さではなく仕事の作法だと考えている。未来の誰かが私のコメントを訂正できるように書く。それが、あの日の恥ずかしさへの、私なりの返事である。

06結論の正しさと、決め方の正しさ

審査会議で、ある資材の中止を決めたことがある。判断そのものは今でも妥当だったと思う。エビデンス(=科学的な根拠データ)の引用に無理があり、通知に照らしても通せない内容だった。問題は決め方だった。時間が押していて、担当部門の言い分を聞く前に結論を出し、議事録には結果だけが残った。後日、担当者から言われた。「結論は受け入れます。ただ、あの場で一言も話させてもらえなかったことは忘れません」。結論が正しかったのに、不信だけが残った。この一件は、いまも胸に刺さったままだ。

逆の経験もある。相手にとってもっと不利な結論、つまり資材の全面差し替えを出した案件で、私は根拠となる通知の該当箇所を先に示し、担当部門の反論を聞き、反論のどこを採用しどこを採用しなかったかを理由付きで記録に残した。結論は重かったのに、担当者は「納得はしていないが、決め方には文句がない」と言った。二つの案件を並べて、私はようやく気づいた。正しさには層が二つある。

法哲学では、これを実体的公正と手続き的公正の区別と呼ぶ(=何を決めたかの正しさと、どう決めたかの正しさは別物、という基本概念)。決め方への納得感が結果への信頼を左右するという事実そのものは、後に社会心理学の実験でも繰り返し確かめられている。

実体的公正(何を決めたか)手続き的公正(どう決めたか)
問うこと結論は根拠に照らして妥当か相手は反論できたか、理由は示されたか
欠けると間違った資材が世に出る正しい結論すら信じてもらえなくなる
審査での姿通知・添付文書との照合審査記録、理由の明示、異議の経路

やっかいなのは、後者を欠くと前者まで巻き添えになることだ。決め方に不信を持った相手は、次からこちらの結論を「また一方的に決めたのだろう」という目で見る。審査の正しさは、一回ごとの結論だけでなく、繰り返される関係の中で信用として貯まったり目減りしたりする。前述のセンは『正義のアイデア』で、完全に正しい制度を設計するより、目の前の明白な不正義を取り除くこと、そして決定を公共的吟味(=当事者が理由を出し合い、開かれた場で検討すること)にさらすことを重んじた。私たちの審査会議は小さな場だが、やっていることの芯は同じだと思う。完璧な審査基準は永遠に来ない。それでも「反論の機会がないまま決められた」という明白な不公正は、今日の会議から取り除ける。

だから私は、審査記録・理由の明示・異議の経路という地味な三点を、事務作業ではなく正しさの一部として扱うことにしている。議事録に反対意見を書き残すこと。結論に理由を添えること。「この判断に異議があれば、この手順で再審議を求められる」と伝えること。どれも結論の中身を一文字も変えない。それでも、これらがある審査とない審査では、同じ結論の重さがまるで違う。決め方は、結論の入れ物ではない。それ自体が、正しさのもう一つの層である。

07どの層の正しさを、誰のために

冒頭の場面に戻る。会議室で、若い担当者が私に聞いた。「それはルールですか、それとも諏訪さんのお考えですか」。あのとき私は即答できなかった。いま同じ質問をされたら、少しだけましな答え方ができると思う。まず、こう言い直す。「いい質問です。分けて答えます」。

ここまで見てきたとおり、審査員の口にする「正しさ」は一枚岩ではない。少なくとも四つの層でできている。第一は正確さ。根拠に照らして事実として合っているか。第二は決め方の適正。結論に至る手続きは筋の通ったものだったか。第三は読み手への誠実さ。隠しごとなく差し出されているか。第四は時間に耐えるか。五年後に読み返しても恥じない判断か。この四つは別々の物差しであって、一つが満点でも他がゼロなら、その言葉は信頼されない。数値の引用が正確でも、決め方が密室なら疑われる。決め方が丁寧でも、都合の悪い注意事項を小さく畳めば不誠実になる。

問い支えになる考え
正確さ根拠と照らして合っているか可謬主義(=どんな判断も間違いうるとみなし、訂正の道を残す立場)
決め方の適正結論に至る手続きは筋が通っていたか手続き的公正(=決め方の納得感が結果への信頼をつくる)
読み手への誠実さ言葉の効果に責任を持っているか発話行為論(=言葉を発することは、それ自体が「約束する」「命じる」などの行為だという考え)
時間に耐えるか後から読み返して恥じないかセンの「位置の申告」(=自分がどこから見て言っているかを明かすこと)

そして質問への答え方は、もう一つの軸で決まる。それは主張なのか、助言なのか。「この表現は通知に反します。修正してください」は主張であり、私は規制という層の正しさを、根拠を添えて言い切る責任を負う。「私ならこう書きます。理由は読み手の誤解を減らせるからです」は助言であり、相手には断る自由がある。前述のセンが説いたのは、人はどこから見て語っているかを申告すべきだ、という趣旨だった。その考え方を借りれば、審査員に求められるのは全知の裁判官の顔ではなく、自分の立ち位置の申告だ。「ここまではルール、ここからは私の考え」。この一線を相手に開示したとき、はじめて審査員の言葉は検証できるものになり、検証できるからこそ信頼される。03で見たオースティンの発話行為論のとおり、審査コメントは感想文ではなく、資材を止めたり直させたりする行為そのものだ。行為である以上、どの層の正しさを、誰のために行使したのかを、言った本人が説明できなければならない。

では、その説明を最後に支えるものは何か。私は徳目の一覧表だとは思わない。誠実、公正、謙虚。壁に貼った標語は、締切前の金曜の夕方には効かない。効くのは、もっと具体的な手続きだ。コメントを書き終えたあと、この資材を読む医師の向こうにいる患者の顔を、一人でいいから思い浮かべる。そのうえで、いま書いた一文を読み直し、必要なら選び直す。それだけのことを、私は良心と呼びたい。良心とは高いところにある徳ではなく、言葉を送信する直前に一度だけ立ち止まる、あの数秒の習慣のことだ。「あれはルールですか、お考えですか」。あの質問に誠実に答え続ける限り、審査員の正しさは、審査員のためのものではなく、最後に薬を手にする人のためのものであり続ける。

Key Points ── 持ち帰る 3 つ
  1. 「正しくない」は椅子(患者・医師・営業・行政、そして保身)ごとに姿を変える。どの椅子から言ったかを申告しない指摘は、誰の声か分からないまま人を従わせる言葉になる。
  2. 審査員の一言は、文面が同じでも力の差によって命令として届く。助言(採否は相手に残す)と主張(安全性の線引きは言い切る)を発話の前に区別し、断定には「何に照らして」という反証の窓を残す。
  3. 正しさには結論の正しさと決め方の正しさの二層がある。審査記録・理由の明示・異議の経路という手続きが欠けると、正しい結論すら信じてもらえなくなる。
出典·参考文献
  1. J.L.オースティン. 言語と行為. 講談社学術文庫, 2019.(発話行為論の原典。言うことはすることだ)
  2. ジョン・R・サール. 言語行為——言語哲学への試論. 勁草書房, 1986.(主張・助言・命令など発話の型と責任の分類)
  3. アマルティア・セン. 合理性と自由. 勁草書房, 2014.(ポジショナルな客観性=位置つきの客観性の議論を収録)
  4. アマルティア・セン. 正義のアイデア. 明石書店, 2011.(完全な正義より公共的吟味を重んじる正義論)
  5. C.S.パース. 連続性の哲学. 岩波文庫, 2001.(可謬主義の源流となる講義録)
  6. カール・ポパー. 推測と反駁——科学的知識の発展. 法政大学出版局, 2009.(反証可能性と誤りから学ぶ知の姿勢)
  7. 田中成明. 現代法理学. 有斐閣, 2011.(実体的公正と手続き的公正の区別を含む法哲学の基本書)
  8. 井上達夫. 法という企て. 東京大学出版会, 2003.(正義と手続きをめぐる日本語の法哲学)
  9. Bonaccio, S. & Dalal, R.S. Advice taking and decision-making: An integrative literature review. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 2006.(助言の受け入れ研究の代表的レビュー)