01審査の現場で、なぜ人は怒るのか
「なぜ今さらそれを言うんですか」。差し戻しへの返信に、そう書いてあった。締め切りは明日。半年かけた資材に、公開直前で赤が入る。書いた本人からすれば、理不尽に感じる場面だ。怒りは、正しさの議論の前に、もう部屋に入ってきている。この回は、そこから始める。
資材審査の仕事には、怒りの火種が最初から埋まっている。こちらは規範に照らして「ここは直してほしい」と伝える。相手にとってそれは、時間と自負を注いだ仕事にケチをつけられた瞬間になる。締め切りが迫っているほど、社内の期待を背負っているほど、その熱は上がりやすい。そして熱くなるのは、相手だけではない。とげのある返信を受け取れば、審査する側の胸の中でも、同じように何かがざわつく。
ここで扱いたいのは、二つの技術だ。一つは、自分と相手の怒りをどう鎮めるか。もう一つは、そもそも怒りが生まれるすれ違いを、期待を先にそろえてどう減らすか。前半でアンガーマネジメント(=怒りの感情と上手につきあうための技術)を、後半でステークホルダー(=その資材に利害や関心を持つ人。営業、マーケティング担当、上司、そして作成者)の期待をそろえる工夫を書く。どちらも、正しさとは別の回路の話だ。
そして忘れたくないのは、いつもの三人目だ。私が怒りを鎮め、すれ違いを減らしたいのは、自分が楽をするためではない。感情のもつれで会話が壊れると、いちばん割を食うのは、その資材を最後に受け取る医療者と、その先の患者だからだ。落ち着いて話せる関係の先にしか、いい資材は残らない。
02怒りは、下にあるものの合図
怒りをうまく扱うには、まずその正体を知るほうがいい。心理学では、怒りは二次感情(=もっと手前にある別の気持ちの後から、二番目に出てくる感情)だと考える。怒りの下には、たいてい一次感情がある。焦り、不安、悲しみ、軽んじられたという痛み。「なぜ今さら」という怒りの下には、「間に合わないかもしれない」という焦りと、「自分の半年を否定された」という痛みが隠れている。怒りは、その痛みを守るために表に立つ、いわば用心棒のようなものだ。
体の中で何が起きているのかも、知っておくと役に立つ。強い刺激を受けると、脳の奥にある扁桃体(へんとうたい)(=危険や不快をいち早く感じ取る、脳の警報装置)が先に反応する。心理学者のダニエル・ゴールマン(=Daniel Goleman、感情の知能について広めた研究者)は、これを扁桃体ハイジャック(=理性が働く前に、感情が心のハンドルを乗っ取ってしまう状態)と呼んだ(Emotional Intelligence, 1995)。かっとなって出た一言を、あとで悔やむ。あれは意志が弱いからではない。警報装置が、考える部屋より先に口を動かしてしまうからだ。
ダニエル・カーネマン(=意思決定の心理を研究し、ノーベル経済学賞を受けた人)の言い方を借りれば、私たちの心には、速くて自動的なシステム1(=反射のように即座に動く思考)と、遅くて慎重なシステム2(=落ち着いて筋道を立てる思考)がある(Thinking, Fast and Slow, 2011)。怒りはシステム1の産物だ。だから、怒りに賢く対処するとは、システム2が追いつくまでの数秒を、どう稼ぐかという話になる。相手を、そして自分を、賢く扱う。次の章は、その数秒の話だ。
03来た瞬間の、数秒をしのぐ
怒りは、生まれてから数秒がいちばん強い。その波の頂上でメールを返せば、まず後悔する。だから、最初の数秒をやり過ごす技術こそが要になる。難しい理屈ではない。訓練で身につく、いくつかの動作だ。
よく知られているのが、六秒待つという工夫だ。怒りが湧いてから理性が追いつくまで、おおよそ数秒かかる。その間、返事をしない。日本アンガーマネジメント協会の安藤俊介(=日本にこの技術を広めた第一人者)も、この「六秒」を最初の一歩に置いている(『アンガーマネジメント入門』朝日新聞出版, 2016)。とげのある返信を読んだら、すぐ返信欄に指を置かない。息を一つ、ゆっくり吐く。それだけで、扁桃体に乗っ取られた口を、いったん取り戻せる。
もう一つ、効き目が確かめられているのが言葉にすることだ。心理学者のマシュー・リーバーマン(=Matthew Lieberman)らは、今の感情に名前をつけるだけで、扁桃体の反応が弱まることを実験で示した(Putting Feelings Into Words, Psychological Science, 2007)。これを感情のラベリング(=「私はいま苛立っている」と、自分の気持ちに名札をつけること)と呼ぶ。「腹が立つ」と心の中で言葉にした瞬間、その感情は少しだけ手なずけられる。名前のない嵐は制御できないが、名前のついた感情は、扱える対象に変わる。
三つ目は、とらえ直しだ。感情研究のジェームズ・グロス(=James Gross、感情の調整を研究した心理学者)は、同じ出来事も、意味づけを変えると感じ方が変わることを示した。これをリフレーミング(=同じ事実を、別の枠組みで見直すこと)という。「なぜ今さら」というとげのある一行を、「攻撃」と読むか、「締め切りに追われた人の悲鳴」と読むか。後者で読めれば、こちらの熱は自然に下がる。相手の一次感情——焦りや不安——が透けて見えるからだ。
| 場面 | 怒りに飲まれた対応 | 数秒しのいだ対応 |
|---|---|---|
| とげのある返信を読む | すぐ言い返す。正論を積み上げる | 六秒、息を吐く。指を返信欄から離す |
| 胸のざわつき | 正体不明のまま行動に出る | 「私はいま苛立っている」と名前をつける |
| 相手の一行の読み方 | 攻撃だと受け取る | 焦りや不安の裏返しだ、ととらえ直す |
| 次の一言 | 相手も身構え、応酬になる | 相手の痛みに触れる言葉から入れる |
これらは才能ではない。エリクソンら(=熟達は才能でなく意図的な反復で育つと示した研究者たち, 1993)が言うように、届け方も感情の扱いも、繰り返して身につく技能だ。前夜に一度、明日の難しいやり取りを頭の中で通しておく。それだけで、本番の数秒は、ずいぶんしのぎやすくなる。
04「聞いてない」という、すれ違いの正体
怒りの多くは、期待のズレから生まれる。「そんなことは聞いていない」「もっと早く言ってほしかった」。この二つの言葉が出たとき、対立しているのは中身ではなく、たがいの期待だ。
人は、満足や不満を、絶対的な出来ではなく期待との差で感じる。マーケティング研究のリチャード・オリバー(=Richard L. Oliver)は、これを期待不一致モデル(=満足は「期待」と「実際」の差で決まる、という考え方)として整理した(A Cognitive Model of the Antecedents and Consequences of Satisfaction Decisions, Journal of Marketing Research, 1980)。同じ差し戻しでも、「軽い確認で済む」と思っていた人には重い一撃になり、「厳しく見られる」と覚悟していた人には想定内に収まる。出来事は同じ。期待が違えば、怒りの大きさが変わる。
審査の現場で期待がずれる理由は、はっきりしている。作成者は「もう終わったつもり」で審査に回す。営業は「今週中に配れる前提」で得意先に話してしまっている。上司は「軽微な修正で通る」と踏んでいる。ところが審査する側は、規範に照らして「ここは作り直しが要る」と判断する。それぞれが、別々の完成図を頭の中に描いている。そのズレに、締め切りという圧力が重なって、怒りに火がつく。
だとすれば、打つ手は二つに分かれる。一つは、すでに起きたズレを、怒りを鎮めながらほどくこと。これは前半で書いた。もう一つは、ズレそのものを、起きる前に小さくしておくことだ。後者のほうが、ずっと効く。次の章で、その先回りの技術を書く。
05先に握る ── 期待を、あらかじめそろえる
期待のズレは、事が起きてから直すより、始まる前にそろえておくほうがはるかに軽く済む。私が心がけているのは、資材を受け取った最初の段階で、見通しを先に伝えることだ。「今回はこの点を重点的に見ます」「早ければ二日、論点が多ければ一週間かかります」。何を、いつまでに、どこまで見るのか。それを先に握っておく。
コツは、控えめに約束して、それを上回ることだ。「三日で戻します」と言って二日で戻せば、相手には嬉しい驚きが残る。「すぐ戻します」と言って三日かかれば、同じ三日でも不満になる。オリバーの期待不一致モデルが教えるのは、そういうことだ。約束の線を低めに置き、実際でそれを越える。安請け合いは、あとで自分の首を絞める。
もう一つ大事なのは、立場ではなく、その奥の関心に目を向けることだ。交渉学のロジャー・フィッシャーとウィリアム・ユーリー(=『ハーバード流交渉術』の著者たち)は、対立の場では「立場(position=表に出た主張)」ではなく「関心(interest=その主張の奥にある本当の狙い)」を見よと説いた(Getting to Yes, 1981)。営業の「今週中に配りたい」という立場の奥には、「得意先との約束を守りたい」という関心がある。そこが見えれば、「では、指摘の重い二点だけ今日中に返します。残りは明日で、得意先への一次連絡には間に合わせましょう」と、期待を現実に着地させ直せる。
見通しを最初に渡す
着手時に「何を・いつまでに・どこまで見るか」を伝える。相手の頭の中の完成図を、こちらの現実に近づけておく。
控えめに約束する
納期も範囲も、低めの線で約束し、実際でそれを越える。安請け合いは、のちのすれ違いの種になる。
立場の奥の関心を聞く
「今週中に」の奥にある本当の狙いを尋ねる。関心が分かれば、期待を落ち着かせる別の道が見えてくる。
悪い知らせほど早く出す
作り直しが要りそうなら、確定を待たずに早めに一報する。遅れた悪い知らせは、怒りを二倍にして返ってくる。
先に握るとは、相手を縛ることではない。たがいの完成図を、早いうちに一枚に近づけておくことだ。同じ絵を見ている二人は、途中で赤が入っても、それを裏切りとは受け取らない。
06「できません」を、関係を壊さずに伝える
期待をそろえても、どうしても応えられない時は来る。「明日の公開は動かせない」と言われても、規範に照らして通せないものは通せない。ここで要るのは、関係を壊さずに「ノー」と言う技術だ。
交渉学のウィリアム・ユーリーは、いい「ノー」は三つの層でできていると言う(The Power of a Positive No, 2007)。まず、自分が本当に守りたいものへの「イエス」。次に、はっきりした「ノー」。最後に、別の道を開く「イエス」。この形をなぞれば、断りは拒絶ではなくなる。「患者に誤解なく届く資材にしたい(イエス)。だからこの表現のままでは通せません(ノー)。ただ、核を生かした別の言い方を一緒に探せます(イエス)」。同じ「できません」でも、この三層に乗せると、相手は突き放されたと感じにくい。
断るときこそ、相手の感情に先に触れておくと届きやすい。交渉人のクリス・ヴォス(=Chris Voss、人質交渉の経験を交渉術にまとめた人)は、相手の気持ちを先に言葉にして受け止める戦術的共感(=相手の感情を推し量り、「お急ぎですよね」と先に声に出して認めること)を勧める(Never Split the Difference, 2016)。「明日に間に合わせたいですよね。それを止める話をするのは、私も心苦しいです」。この一言があるかないかで、続く「ノー」の刺さり方が変わる。感情を認めることは、譲ることではない。相手が話を聞ける状態に戻すための、入り口だ。
| 軸 | 関係を削る断り方 | 関係を保つ断り方 |
|---|---|---|
| 入り方 | いきなり「それは無理です」 | 「間に合わせたいですよね」と感情を先に受け止める |
| ノーの形 | 否定だけを置く | 守りたいもの(イエス)→ノー→別の道(イエス)の三層で伝える |
| 根拠の示し方 | 「規則だから」で押し切る | 販提Gや適正広告基準を、二人で読む光として置く |
| 相手に残るもの | 拒まれた、という感情 | 一緒に道を探してもらえた、という感覚 |
断りの根拠は、私の好みではない。厚生労働省の販提G(=医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン, 2018)や、医薬品等適正広告基準(=厚生労働省医薬・生活衛生局監視指導・麻薬対策課長通知として示された、広告表現の物差し)に書いてある。規範を、相手を打つ棒にするのか、二人で同じ文を読む明かりにするのか。「ノー」の温度は、そこで決まる。
07怒りと期待のあいだで、守るもの
怒りを鎮める技術も、期待をそろえる技術も、それ自体が目的ではない。その先で守りたいものがある。落ち着いた会話の向こうに立っているのは、この資材を手に取る医療者と、その先の患者だ。
振り返れば、怒りもすれ違いも、消し去るものではない。資材審査は、たがいに違う完成図を持つ人どうしが、一枚の資材の上で出会う場だ。そこに感情の熱が生まれるのは、みなが本気だからだ。本気でなければ、怒りも焦りも湧かない。だから私は、怒りをなくそうとは思わない。怒りに飲まれずに、その下にある焦りや不安に手を伸ばせる自分でいたいと思う。
感情の知能を説いたゴールマンは、自分の感情に気づき、それを扱い、相手の感情を汲む力こそが、対人の仕事の土台だと書いた。資材審査は、規範の知識だけでできる仕事ではない。相手の一次感情を読み、自分の熱を数秒しのぎ、期待を先にそろえ、断るときも関係を残す。その一つひとつは、正しさとは別の場所にある、人と人の作法だ。そしてその作法を支えているのは、小手先の技ではなく、相手と、その先の患者を想う良心だと、私は思っている。
最初の問いに戻ろう。とげのある一行に、こちらの内側も熱くなる。その熱を、どうするか。飲まれれば、応酬になり、会話が壊れ、いちばん困るのは三人目だ。数秒しのいで、相手の焦りに手を伸ばし、期待を早いうちにそろえておけば、同じ締め切りの下でも、二人は同じ絵を見ていられる。怒りと期待のあいだで審査員が守るのは、自分の面子でも、判断の正しさでもない。その資材を最後に受け取る、顔の見えない一人の患者の、誤解のない理解である。
- 怒りは二次感情。下にある焦り・不安・痛みの合図だ。来た瞬間は六秒しのぎ、「いま苛立っている」と名前をつけ、相手の一行を「悲鳴」ととらえ直す。
- 対立の多くは、期待のズレから来る。満足も不満も「期待と実際の差」で決まる。見通しを最初に渡し、控えめに約束して上回り、立場の奥の関心を聞く。
- 断るときは、守りたいもの(イエス)→ノー→別の道(イエス)の三層で。相手の感情を先に受け止め、規範は打つ棒でなく二人で読む光として置く。守る相手は、いつも三人目の患者。
- Daniel Goleman. Emotional Intelligence: Why It Can Matter More Than IQ. Bantam Books, 1995. (扁桃体ハイジャックと感情の知能。感情に気づき扱う力が対人の仕事の土台、という本稿の背骨)
- Daniel Kahneman. Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux, 2011. (速いシステム1と遅いシステム2。怒りはシステム1、数秒稼いでシステム2を待つ、の論拠)
- Matthew D. Lieberman, et al. Putting Feelings Into Words: Affect Labeling Disrupts Amygdala Activity in Response to Affective Stimuli (Psychological Science, Vol. 18, No. 5). SAGE / APS, 2007. (感情に名前をつけると扁桃体の反応が弱まる=ラベリングの実験的裏づけ)
- James J. Gross. The Emerging Field of Emotion Regulation: An Integrative Review (Review of General Psychology, Vol. 2, No. 3). APA, 1998. (意味づけの変更で感情が変わる=リフレーミングの理論的支柱)
- 安藤俊介. アンガーマネジメント入門. 朝日新聞出版, 2016. (怒りが湧いてからの「六秒」をしのぐ、日本での実践の代表的な手引き)
- K. Anders Ericsson, Ralf Th. Krampe, Clemens Tesch-Römer. The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance (Psychological Review, Vol. 100, No. 3). APA, 1993. (感情の扱いも届け方も、意図的な反復で育つ技能だ、の根拠)
- Richard L. Oliver. A Cognitive Model of the Antecedents and Consequences of Satisfaction Decisions (Journal of Marketing Research, Vol. 17, No. 4). American Marketing Association, 1980. (満足は期待と実際の差で決まる=期待不一致モデル。期待管理の中心命題)
- Roger Fisher, William Ury. Getting to Yes: Negotiating Agreement Without Giving In. Houghton Mifflin, 1981. (立場でなく関心を見る。期待を現実に着地させ直す交渉の枠組み)
- William Ury. The Power of a Positive No: How to Say No and Still Get to Yes. Bantam Books, 2007. (守りたいもの→ノー→別の道の三層。関係を壊さずに断る方法)
- Chris Voss, Tahl Raz. Never Split the Difference: Negotiating As If Your Life Depended On It. HarperBusiness, 2016. (戦術的共感=相手の感情を先に言葉にして受け止める。断りを届ける入り口)
- 厚生労働省 医薬・生活衛生局. 医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン. 厚生労働省(医薬・生活衛生局長通知), 2018. (断りと指摘が拠って立つ規範一次資料)
- 厚生労働省 医薬・生活衛生局 監視指導・麻薬対策課. 医薬品等適正広告基準. 厚生労働省(監視指導・麻薬対策課長通知), 2017改定. (広告表現の適否を判断する物差し。二人で読む光として置く一次資料)